リレー随想
西日本新聞に平成12年4月8日から平成16年2月28日までの4年間、リレー随想というタイトルで文章を載せておりました。
連載ものの紹介は難しいと思っておりましたが、ホームページの特性を活かせばこうした試みも出来るかと、お一人お一人の顔を思い浮かべ、反響を楽しみにしているところです。(全くないとがっかりしますが...、)
素人の随想ですので、気楽に読んでもらえたら嬉しいです
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携帯電話のバーコードリーダーで、上の画像を読み取ってください。西日本新聞に平成12年4月8日から平成16年2月28日までの4年間、リレー随想というタイトルで文章を載せておりました。
連載ものの紹介は難しいと思っておりましたが、ホームページの特性を活かせばこうした試みも出来るかと、お一人お一人の顔を思い浮かべ、反響を楽しみにしているところです。(全くないとがっかりしますが...、)
素人の随想ですので、気楽に読んでもらえたら嬉しいです
私が今の仕事を開業したばかりの頃、子どもにせがまれてヤワラちゃんこと谷亮子選手(当時は田村姓)を、武道館に見に行き、その報告です。
最後の最後に、ちょっとしたオチがあります。楽しんでもらえたら嬉しいです。
武道館(ヤワラちゃん見聞記その1)
植木町のSさんから、八月二五日にヤワラちゃんこと田村亮子選手が、水前寺の武道館で強化合宿をするので、「良かったらおいで、一緒に写真を撮ってあげる」と小学生の息子に電話があったみたいだった。平成九年のことである。Sさんは、田村選手のおばさんにあたる人で、彼女の試合には、ほとんど応援に行っている間柄らしい。
「この日、武道館に行ける?」と息子が言うので、「何時からだ?」と聞くと、昼の二時くらいからヤワラちゃんは武道館にいると答えた。
「その時間帯は、世のお父さんはみんな、一生懸命仕事しているんだよ」と言うと、「忙しいならいい...」と息子は言ったが、当時私は事務所を開いたばかりで、急いでしなければならないような用件もなく、"どうせ大した仕事もないんだろう"と息子からは、足許を見透かされているようだった。「ヤワラちゃんにも会ってみたいし、行ってみるか...」私がそう言うと、息子は喜んで色紙を三枚用意した。家庭教師の森田さん、友達の伊藤君と自分の分だと言う。「他にやる人はいないか?」私が聞くと、「そんなに一杯頼めないよ」と、わくわくした様子だった。
当日はカメラを持って、二時より少し前に武道館に着いたが、館の雰囲気が何となくのんびりしていて、「本当に今日ヤワラちゃん来るのか?」と息子に確かめた。「Sのおばちゃんが、今日だと言っていたもん」と、息子は間違いないと言ったが、何となく不安な様子だった。Sさんからは昨日電話があって、今日は来られないとのこと。職員の人が見えたので聞いてみると、四時からと教えてくれた。一緒に来た娘と三人、館内をぶらぶらして剣道場に入り、宮本武蔵や丸目蔵人の名札を眺めながら、しばらく時間を過ごした。
田村選手をはじめ、日本の主力級の選手が数人中に入ると、取材の人も何人か来ていて、館内が騒々しくなった。通路よりは少し下がったところから、柔道着姿の田村選手を見たが、彼女は大勢集まった私達を前に、「こんにちは!」と、目が合った一人一人に自分の方から声をかけて、さっさと中に入って行った。これから合宿練習に向かう彼女は硬い顔の表情で、テレビでよく見る、あの人なつっこい顔ではなかったが、それでも、彼女を囲んだ大勢の人に対する気配りみたいなものが感じられた。とても爽やかで、素晴らしい女性だと、私は直ぐに彼女のファンになった。誰かがサインを頼んでいたが、「後でします」とも、答えていた。
記念写真(ヤワラちゃん見聞記その2)
田村亮子選手が水前寺の武道館で強化合宿をすると、彼女のおばさんである植木町のSさんから教えて貰い、小学生の息子と娘、それに私の三人でヤワラちゃんを見に行った。四時から始まる合宿を前に、大勢の人と一緒に通路で待っていると、田村亮子選手をはじめ、日本の主力級の選手たちが武道館に姿を見せた。田村選手は、大勢集まった私達を前に、「こんにちは!」と一言、彼女の方から挨拶してくれた。これから合宿練習に向かう彼女は硬い表情で、テレビでよく見る、あの人なつっこい顔ではなかったが、それでも彼女を囲んだ大勢の人に対する気配りみたいなものを感じて、私は直ぐにファンになった。息子は後でサインを貰おうと色紙を三枚持ってきている(家庭教師の森田さん、友達の伊藤君と自分の分と言う)。私は機会を見て、子供達と写真を撮らせて貰いたいと思っているが、人も多く、その機会はあるだろうかと不安になっていた。Sさんがいれば頼みやすいが、今日は来られないとのことだった。
この時の強化合宿の選手は、五名いたように記憶しているが、何分にも平成九年のことなので記憶はあやしい。この時いた重量級の選手が熊本出身の選手だと、次の日の新聞を見て知ったのは覚えている。合宿の内容は、それぞれの選手に地元高校の女子柔道部員達が次々に掛かって行くもので、数人を相手にするとさすがの選手達も息が上がっていた。ここでも田村選手が一番人気で、列に並んだ部員の数も多かった。積極的な部員は列の前に出て何度も掛かって行くが、引っ込み思案な子は列の後ろで、前に出るタイミングがつかめないでいるようだった。母親らしき人がカメラを持って、そういった一人の子の背中を押すと、その子は前に出て、組んだと思ったら、すぐに勝負がついていたが、それでも田村選手とのツーショットは撮れたわけで、母親は満足げにその場所を引き上げ、私たちのいる観覧席へと戻ってきた。場所取りも一段落したので観覧席を見渡したが、大人の男性は私だけだった。
「選手でない人が畳の所にいてはいけないんだよ」娘はそう言ったが、「ヤワラちゃんとおまえたちと、写真撮れるかなあ?」と、私はその様子が少しばかり羨ましかった。
写真をあきらめ (ヤワラちゃん見聞記その3)
息子が今でも、日付の入った色紙を大事に取っているので、平成九年八月二五日と分かるが、この日ヤワラちゃんこと田村亮子選手はじめ、数人の日本を代表する女子柔道の主力選手が、水前寺の武道館で強化合宿をした。
植木町のSさんという知り合いの人が、彼女のおばさんにあたるとのことで、この日合宿があることを教えてもらっていたが、Sさんは都合で来られないとのことだった。
Sさんとは同じ宗教の信者さん同士で、そうした会合の席で「いつかヤワラちゃんと一緒に写真撮ってあげるね」と、Sさんから息子が言ってもらい、さらに、Sさんと田村選手と仲良く写った写真をもらって、家の見えるところに飾っていた。
息子と娘、二人ともまだ小学生だが、田村選手と一緒に写真が撮れたら嬉しかろうと、カメラ持参で張り切って武道館に行ったが、道場の中で選手達が練習前のストレッチとか、柔軟体操をしている間にも、記者らしき人が選手の横で車座になり取材している風で、とても私みたいなのが「写真を一枚...」と、お願いに行けるような状態ではなかった。特に田村選手の人気は圧倒的で、常に何人かの取材の人が張り付いていた。
合宿の内容は、地元の高校生女子柔道部員が、強化選手を相手に次々に掛かって行くというもので、熊本市内(或いは県内)全部の女子柔道部員が集まったのではないかと思うような人数だった。強化選手一人に対して三、四十名いたのではないだろうか、日本主力の選手とはいえ、数人を相手にするとさすがの選手達も息が上がり、後からは、投げこそ出来なかったが、高校生が強化選手を倒す場面も二、三見られた。
合宿の練習が終わると、それらの女子柔道部員や付き添いの父兄、また私みたいなやじ馬が一斉に通路にあふれ出し、通路の一角に用意された机の所に、サインをもらおうと、多くの人が並んだ。その後田村選手だけ別室を写真スタジオみたいにして、照明を当てられ、スチール写真を撮っていた。
「これじゃ、ヤワラちゃんとの写真は無理だな...、」子供二人にそう言うと、二人とも、しっかりサインをもらっていた。
ちょっと一言(ヤワラちゃん見聞記 その4)
息子と娘、子ども二人とも小学生とまだ小さかったので、大勢の人が外に出た後で武道館を後にした。二,三百名を越える人達が一斉に、そうは広くない玄関口へと集まるのである。それらと一緒に出るのは、危険に思えた。
田村亮子選手のおばさんだというSさんと私たちが知り合いで、そのSさんからこの日、田村選手ら日本を代表する女子柔道の選手達が、水前寺の武道館で合宿をすると教えてもらい、見物に来て、その帰りであった。出来れば、田村選手とうちの子ども達とで写真を撮りたかったが、選手達には、練習の合間も取材の人が付きっきりで、また人も多く、とても写真をお願いできる状態ではなかった。「今日は諦めよう」と、子供達には言って聞かせたところだった。
外に出てしばらくすると、出口の所に田村選手が現れ、スタッフらしき人と、ニコニコしながらこちらへやって来た。私と子ども二人は脇によけ、彼女たちを先に通した。その時ちょっと会釈したような形になって、私の方から田村選手に声をかけた。
「Sさんの知り合いの者です。Sさんは今日、来られないと言っておられました。」若い女性を前にして、もう少し気の利いたことが言えないものかと思うが、子連れの中年男が話せることといったら、せいぜいこんなものだ。
田村選手は、何と言っていいか分からないような顔で私を見、「そうですか...、」とだけ返事を返して向こうへ行った。写真をお願いできるチャンスだったかなあとも思ったが、合宿練習の後で彼女も疲れているだろうし、それに先程からの取材のあり方を見ていると、ちょっと気が引けた。
家に帰り家内が仕事から帰ってくると、多分娘の方だったと思うが、「父ちゃん凄いよ。父ちゃん、今日ヤワラちゃんとお話ししたんだよ」と一気にまくし立てた。一人が言うと、もう片方も、「そう、そう、父ちゃん凄い」と、二人とも凄い凄いと言って、今日のことを家内に報告していた。
大の男が仕事もせずに行って、一緒に並んだところを写真にも撮ってやれず、「武道館まで、俺は何をしに行ったのだろう。」と思いながら、冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜いた。
昭和59年3月11日仏滅日曜日、多くの仲間が協力してくれて、家内と会費制で結婚式を挙げることがました。仲間への感謝を込めて、いい報告(?)が出来ています。
お金が、ない
家内との結婚を決意したはいいものの、それまでのいい加減な生活がたたって、私の貯金通帳には、情けない数字が並んでいた。若いときに金がないのは当たり前と思っていて、それはそうなのだけど、四十を過ぎた今でも、あまり小金を貯められないでいるところをみてみると、私の経済感覚にも少し問題があったのだと、この頃ようやく思えるようになった。当時金を貯めようなどと言う考えは、とんと持ち合わせていなかった。
「(結婚)式を挙げる、お金はないなあ…、」と私。
「お金が無くても、式は挙げられるよ」と家内が、会費制でやれば、そんなにお金をかけずに出来ると言った。会費制も何も、結婚式そのものが私にはよく分からなかったので、何でもいいやと思って、家内にすべてを任せた。
「で、いくらくらいで出来るものなの?」家内に聞いてみた。
「それはやり方次第で、どうにでもなるよ」と家内は言い、会費制は、「招待される方も、そんなに包まなくていいから、助かる」のだそうだ。
「会費もなるだけ安く、大人を三千円にして、こどもを五百円にしよう」と家内が言った。何を根拠に数字を出したのか分からないが、負担にならない金額で人を招待できるなら、貧乏育ちとしては、なによりである。それは家内も同様で、「この金額でなら、大勢人を呼べる」と家内の方は、名簿を作ったら二百名を越えた(家内の方で実際に来てくれたのは、二百五十名)。私にも、「いっぱい呼んでいいよ」と言ったが、私の方はせいぜい二、三十人がいいところで、大勢を呼ぶという考えが私には、あまり理解できなかった。
出だしがこんなであったので、風変わりと言うか、ちょっと面白い結婚式になったと思うが、そこいら辺のご報告も、いずれ出来るだろう。だがその前に、家内の父親へ挨拶を済ませておかなければならない。
「お金がありませんので、結納は出来ません。娘さんと、結婚させて下さい。」父親は黙ってうなずいてくれたが、内心は、「変な男と一緒になったなあ」と思ったに違いない。
実行委員会
会費制で結婚式を挙げようと家内と相談して、一番最初にしなければならないことは、実行委員を誰かにお願いすることだった。私と家内は同じ文芸サークルに所属しており、仲間も大体同じくらいの歳で言いやすかったので、サークルの例会の時、結婚することの報告と、結婚式の手伝いとをお願いすると、仲間の一人が、「そう言ってくるのを、待っていたよ」と、拍手してくれた。
編集長のIさんがサークルの代表として、その他にも何人か、色々と打ち合わせに参加してくれることとなったが、そこで問題になったのが、大人三千円、こども五百円と、二人(ほとんど家内)で決めた会費であった。予算的に、この金額でお酒を出すのは無理なので、アルコールは、なしとした。こどもの会費をもう少し上げられないかという話も出たが、これには家内が難色を示した。家内は自宅で月二回、近所のこども達に無料で本を貸し出す、こども文庫という活動をしていた。家内とすれば、文庫のこども達には、なるだけ安い会費で、大勢に来て貰いたかっのだろう(式当日は、二か三つのテーブルが、こども達で占められていたように思う)が、こどもの数が、予算を少しばかり圧迫しているのは間違いなかった。
「最初から金額を決めて、実行委員会を束縛したらいかんよ。会費制というのは、会の運営から少し利益を出して、その利益を、あなた達へのお祝いにするんだから…、」メンバーの中からは、赤字を出したら、実行委員会を開く意味がない、という意見も出たが、私達が(というよりも家内が)何とかお願いして、半ば強引に、最初に決めた金額で押し切ってしまった。後からは、家内の職場の人も数人、打ち合わせに加わるようになり、何度も何度も同じことを繰り返して、場所は、九品寺にある労働会館のホールを確保した。招待客は三百人近くになり、一度には入りきれないので、二回に分け、こども達は二回目の方に招待することとし、ケーキとコーヒーだけで披露宴をやろうと、とりあえずの方向だけは決めることができた。「コーヒーは嫌い」と言う家内の意見を入れて、紅茶も準備してくれることになった。
三千円の予算の中で、引き出物も考えた。仲人が水前寺の方に、「竹とんぼ」という子供の本の専門店を出していた(今は西原村に移っている)ので、そこに頼んで、「サンタクロースっているんでしょうか?」(中村妙子・訳/ 東 逸子・絵)という本を取り寄せてもらった。定価は六百円。子供向けの絵本だが、名著である。『いい話だなあ』と感心していると、仲人が、「発行元である偕成社が、好意で、結婚記念の金文字を入れてくれることになった」と教えてくれた。思いもかけないことで、ただただ感謝、感謝。
一回目
結婚式の会場として申し込んだ、九品寺の労働会館を下見に行った。実際会場に足を運んで、人の流れや受付の位置を確認しようと思ったのだが、結論から言えば、徒労であった。私が玉名の伊倉と言うところの出身で、そちらの教会で式を挙げ、急いで熊本に戻ってきて、一時からが最初の披露宴であった。会場に戻ったときには、実行委員の人達があわただしく動いており、受付位置の場所など、前もって私が考えていた段取りとは、少し違う方向で動き出していた。会場に着くなりメンバーの一人から、「後のことは私達に任せて、あなた達はしばらく休んでいなさい」と、控え室に案内された。この結婚式のため、何度も実行委員会を開いたが、控え室を用意するなど、全く頭になかった。心配りというのは、ありがたいものである。
アルコールなしの披露宴で、替わりに、コーヒーと紅茶を用意した。手伝いをお願いした喫茶店のマスターは、「こんなにコーヒーを淹れたのは、初めてだよ」と、各テーブルに並んだポットを指さして「いい結婚式になるよ」と、私達の肩を、ポンとたいてくれた。
招待客が三百名近くと人数が多いので、披露宴は一時からと四時からの、二回に分けてある。一回目と二回目とでは、司会者も交代する。Tさんは、一回目の司会をしてくれることになっていたが、エプロンもせずに、会場をかけずり回ってくれていた。私も上着を脱いで、準備に加わろうとしたが、受付が始まったので、当事者はここにいてはいけないと、控え室に戻された。
一回目の披露宴が始まった。乾杯を、家内の元上司にお願いした。定年を迎えておられたが、とても素晴らしい人で、何よりも、「場をきりっと引き締めてくれる人」なのだそうだ。紙コップにジュースを注ぐと元上司は、「こういう結婚式を計画された、実行委員の皆様に敬意を表します」と、言葉少なに音頭をとってくれた。その言葉を聞いた時、「ひょっとしたらこれは、いい結婚式になるかも知れない。」何かしらそんな思いが、チラッと頭の中をよぎっていった。
舞台裏
会場として確保した労働会館のホールは、かなりの人数を収容できるのだが、それでも三百人近くを一度に入れるのは無理だったので、午後一時から二時半までと、四時から五時半までの二回に分けて、結婚披露宴を行う予定であった。一回目の披露宴が終わって、二回目の披露宴が始まるまでの間は一時間半。受付等を考えると、一時間くらいで会場の模様替えをしなければならない。
お茶とケーキだけの披露宴で、テーブルの上にそんなにものは乗っていない。終わったら直ぐに片づけられるよう、ケーキを載せる皿やコーヒーカップなど、なるべく紙製にして、作業が簡単に済むよう心がけていた。一回目の招待客が退場すると同時にというか、退場に合わせて、会場の整理が始まったようである。一回目に招待した人の何人かはそのまま残って、会場の後片づけ、そして次の披露宴の準備など、手伝ってくれていた。そういった人は、エプロン持参で披露宴に出席してくれていたのかと思うと、本当にありがたかった。
外で、招待した人達を見送って会場に戻ると、右のような状況だったので、私も手伝おうと上着を脱いだが、控え室でおとなしくしているように言われ、それに従った。とは言っても、私達のために大勢の人やものが動いているのを目の前にすると、申し訳なくて、じっとしていられるものでもなかった。
時間が近づくと、水上村の湯山から、トルストイ研究家の北御門二郎氏、横浜から児童文学者の長崎源之助氏らがいらして、控え室の方をのぞきに来られた。二回目には、家内がやっているこども文庫のこども達も招待しているが、その子らが集まったのだろう、外が随分とにぎやかになった。
北御門二郎氏は、トルストイ三部作の翻訳で、日本翻訳大賞を受賞された。私も名前だけは知っていたが、お会いするのはこの時が初めてであった。長崎源之助氏については、後日お話しできると思うが、家内が言うには、「大物」なのだそうだ。小学校三年生の国語の教科書に、「つりばしわたれ」という作品が掲載されている。何度か文庫の方にも来ていただいているみたいだが、こちらも私は初対面だった。北御門二郎氏と長崎源之助氏には、後で挨拶をお願いしている。どちらも家内の関係だが、お二人のスピーチも、上手い具合に報告できればと思っている。枚数がなくなった。
長崎源之助氏のスピーチ
長崎源之助氏、横浜市在住の児童文学者。正直私もそれまで知らなかったが、家内が言うのには、「大物」なのだそうだ。小学校三年生の国語の教科書に「つりばしわたれ」という作品が掲載されている。家内がこども文庫を始めようとして、たまたまそうした活動として、横浜にある氏の「豆の木文庫」の記事が新聞に紹介されていて、手紙を出したところ、「とにかく始めてみることです」と、お返事を頂き、今も何かと気に掛けて下さっているとのことであった。
家内との関係で今日は、お二人の「大物」に挨拶をお願いしている。お一人は長崎源之助氏、もう一人はトルストイ研究家の北御門二郎氏である。年齢からいけば、北御門氏を先にお願いしなければならないのだろうが、わざわざ横浜から来て下さるのだからと、長崎源之助氏に最初のスピーチをお願いしていた。結婚式のための仲人を、「竹とんぼ」という(当時は水前寺に店があった。今は西原村に移っている)、子供の本を専門に扱うところのご夫婦にお願いしているが、そこの奥さんは、北御門氏の次女に当たるという事情もあって、「北御門先生は、身内と同じ扱い」とさせていただくことにした。
長崎源之助氏は、「しろいうさぎとくろいうさぎ」(ガースウィリアムズ ぶん.え/まつおかきょうこ やく 福音館書店刊)という本の朗読をして下さった。本の内容は、仲の良いしろいうさぎとくろいうさぎが、結婚するというもので、結婚というものの意味が、優しい言葉で語られていた。
子どもに読み聞かせるような氏の朗読に、一早く反応したのは、文庫の子ども達だった。彼らは(或いは彼女らは)、目をランランと輝かせて、氏の朗読に聞き入っていた。壇上から一番よく見える、二つか三つのテーブルに陣取った小さな子ども達が、一斉に目を輝かせている様は、結婚式としては、少し異様と言っていい。氏が一番読み聞かせをしたい相手というのは、この場合私なのだろうが、それが、小さな子どもと同列に扱われている。子ども達が氏の朗読に聞き入れば聞き入るほど、何とも奇妙な印象を持ってしまった。読み終わって氏は「これからこの本を、みなさんのテーブルに回しますから、二人のために寄せ書きして下さい」と近くの人に本を渡して「田口君、邦子さん、おめでとう、いつまでも仲良くしていって下さい」と、一言おっしゃってから、壇上を離れられた。
長崎源之助氏のあとで、北御門二郎氏にも挨拶をお願いしているが、家内は「長崎先生のこんなスピーチのあとでは、やりづらいだろうな、北御門先生は大丈夫かな?」と、身内と同じ扱いをしている人だけに、心配したそうだが、北御門氏のスピーチは飄々としていて、ちょっと他の人には真似の出来ない、味わいのものだった。このスピーチも後日報告させていただくことにして、今回はこれまで。
北御門二郎氏のスピーチ、それと…
アルコールなしで、お茶とケーキだけの披露宴をします。という、手書きの案内状を出していた。球磨郡水上村湯山在住のトルストイ研究家、北御門二郎氏は、前に出られると直ぐ「どんな結婚式なのか、良く分からないので、その場の雰囲気をみて、話をしようと思っています。」とおっしゃった。お名前だけは以前から聞いていたが、私はこの日、初めてお会いする。マイクを両手に持ちながら、話を始められた。
以前、家内が氏の講演を聞いて感動し、手を上げて質問しようとして、声が詰まって泣き出したそうだ。それ以来氏とも、家族のようなつきあいをさせて貰っていると、家内からは聞いていた。氏もその事に触れられた後、「物事を、何でも受け止められる、柔らかい感受性の持ち主」と、紹介してくださり、「落ち着いたら、今度は二人で湯山に遊びにいらっしゃい」と、話を終えられた。氏の、飄々とした語り口は、とても魅力的だった。
家内は、こども文庫の活動やら講演を聞きに行ったりと、かなり行動的な人間だが、私はそれとは逆で、あまり行動的ではないのだろう。わざわざ講演に行こうとしないだけのことで、自分では普通だと思っている。が、家内と比較すると私の交友関係は…、家内の関係でこの日来てくれた人は、二百五十人。私の方は二十人いただろうか?少し淋しいかなあと思ったことだった。私の関係でスピーチをお願いしたのは、熊本に「詩と眞実」という同人雑誌があるが、当時そこの編集長だった、久保田義夫氏。
家内と私は同じ文芸サークルの仲間だが、私はそれとは別に、「詩と眞実」にも加わって、少しばかり小説めいたものを書いていた。久保田氏は、私が以前、同誌に発表した作品を取り上げて、それをこと細かく批評し、そしてみんなに紹介してくださった。私は自分の書いたものを、こんなに真剣に読んで下さった方がおられたことが嬉しくて、話に聞き入っていたが、段々と「自分には興味のある話だけれど、他の人には何のことか、分からないだろうな」と、ちょっと気が引けるような感じがしたものだった。家内が私の隣で時計をみていたが、氏の話は十分を越えて、まだ終わる気配がなかった。
「あなたのことを、一生懸命話してくれていたね。あんな無邪気な人はいないよ。素晴らしい先生だね」と家内は言った。七十に近い人をつかまえてと思ったが、無邪気という表現には説得力がある。北御門氏の言う“柔らかい感受性の持ち主”というのは、こういうことなのかも知れない。「無邪気というのなら、久保田先生が無邪気になるような、そんな雰囲気が会場にあったのよ」「詩と眞実」の仲間の一人は、そう言ってくれた。
打ち上げ
結婚披露宴も無事終わり、後かたづけで会場はごたごたしていた。会場の後かたづけが済んだら、この後、手伝いをしてくれた実行委員のメンバーと、食事会をする予定であった。家内が「長崎先生も誘って」と、ウェディングドレスを着替えに控え室へ戻る途中で言ったので、その事を伝えに行った。氏は数日前から風邪が治らず、体調が悪いので遠慮するとのこと。長崎源之助氏は、横浜在住の児童文学者、小学校三年生の国語の教科書に「つりばしわたれ」という作品が掲載されている。実行委員の多くは、文芸サークルの仲間達なので、こうした先生が来てくれると嬉しい。残念に思ったことだった。
実行委員のみんなには、本当にお世話になった。垂れ幕を作ってくれた看板屋の夫婦。朝早くに本荘の花市場まで買い出しに行ってくれた仲間。司会をしてくれた友人。アコーディオンで場の雰囲気を作ってくれた中学生。今改めて当時を思いかえしてみると、本当にありがたい。
アルコールなしの披露宴で、替わりにコーヒーと紅茶を準備させて貰ったが、三百人近い人数のコーヒーを、文芸サークルの仲間で良く集まる喫茶店のマスターに淹れてもらった。世話になったので、マスターも食事会へ誘ったが、この後店があるとのこと。
「店に帰ってから、ゆっくりこの感動をかみしめるよ」マスターは、一緒に手伝ってくれたウェイトレスのSさんを促すようにしてそう言った。「こういう結婚式の手伝いをさせてくれて、本当にありがとう。」マスターがそう言ってくれると、家内は脇で涙ぐんでいた。
空港まで
結婚披露宴が終わった後、横浜から来てくださった長崎源之助氏を、打ち上げの食事会にお誘いしたのだが、前日から風邪で、体調が良くないとのことで、食事会の方は遠慮されていた。翌日、家内が宿泊されているホテルに電話を入れ、飛行機の時間をお聞きすると、ゆっくり時間があったので、「今から先生を迎えに行って、空港まで送ります」と電話口で家内が言い、「ね、良かろ?」と私を見たので、「いいよ」と言った。
小学校の国語の教科書に作品が載っているような、偉い先生を乗せているんだと思うと、私は少しばかり緊張して、ハンドルを握っていた。後日になるが、やはり今回と同じように空港へ向かう途中で、「つりばしわたれ」という作品について「あれはそんなに苦労して書いた作品ではないのだけれど、僕の作品の中では、一番の稼ぎ頭になったなあ」と、作品が出来たいきさつを、お聞きしたことがあった。ある企業広告の冊子に載せるということで、執筆依頼があったそうだ。
「とても物分かりのいい企業でね。何の条件も付けずに、好きなように書いていいって言うんだ。何の条件も付けないけれど、一つだけ条件を付けられて、その企業のイメージに合う作品を書いてくれっていうんだよ。その企業のイメージというのが、“スカッと爽やか、なのを書いてくれ”って。何という会社か分かるだろう?」氏は嬉しそうにおっしゃった。そのキャッチフレーズも、今はあまり聞かなくなったなあと思いながら、「あの有名な、某清涼飲料水の…、」私が言うと、「そう、そう」と、氏は尚更に嬉しそうな顔をされた。
空港でゲート越しにお別れをしたが、そのときの様子を、氏が出しておられる随筆集の中で、「お幸せに」という題にしてまとめておられる。一流の人文章と、私のそれとを一緒に並べると、文章のつたなさが目立ってしまうが、引用させていただこう。
『前半略…、空港についたとき、もうここで結構だというのに、搭乗口まで送ってくれた。私が搭乗者待合室に入っても、二人は立ち去らなかった。邦子さんが何かいったが、ガラス越しでは、全然きこえない。手できこえないと合図すると、邦子さんはポケットから薬袋をとりだし、その裏にボールペンを走らせた。彼にもかけといったらしく、彼も何かかいた。それをガラス越しに見せた。
「どうもありがとうございました。おからだを大切にして下さい。」
田口君も同じようなことがかいてあった。
私も、医者からかぜ薬をもらっていたので、オーバーのポケットから薬袋をとりだし、その裏にかいた。「お幸せに」と。
それを見ると、邦子さんは大きくうなずいて、にっこり笑った。『まわり道の幸せ』 皆成社刊 より抜粋
平成14年8月10日 西人新聞に発表港まで.pdf
湯山行き
結婚したばかりの頃、それ以前からではあったが、家内は、トルストイ研究家である北御門二郎さんの大ファンだった。「水上村の湯山に、北御門二郎さんと言う、素晴らしい人がいる。私はこの先生の人間性は好きだけど、作品の方は難しくてよく分からない。日本で一番素晴らしい翻訳、と言う賞を貰っていらっしゃるから、読んでみない」真新しい、あまり読んだ気配のないそれらの本は、トルストイ三部作と銘打って、東海大学から出版されていた。「どれがいいかな?」家内に聞くと、「どうせなら、一番長いのがいいよ」そう言って勧めてくれたのが、「戦争と平和」だった。読み切れるだろうかと思ったが、終わって、鳥肌が立つほどの感動を覚えた。
アンドレイを中心にして、父、妹のマリア、息子のニコーレンカ、これらの人間関係が、私にとって他人事でなかった。「アンドレイ、あなたは誰に対しても優しいけど、何かしら考え方に傲慢なところがあってよ」アンドレイに対する、妹マリアのこの言葉にドキッとする人は、決して少数ではないと思う。
三月の結婚式には北御門二郎さんにも来ていただいて、挨拶をお願いした。桜の時期に氏の家を訪ねたが、この時のことは「今までいろんな人がここに来たけど、新婚旅行に我が家を選んでくれたのは、あなた達が初めて」と喜んで下さった。「あれは新婚旅行だったのかなあ…」当時そんなつもりはなかったが、多分そうだったのだろう。
先日久しぶりに北御門二郎さん(八七歳)を訪ねて湯山に行った。「わざわざ、この老人のために…」とおっしゃっていたが、一昨年前に来たときよりは顔色も良く、随分元気になられたなあと嬉しかった。「ご無沙汰しております。お元気でしたか?」手をついて挨拶すると、「何だか夢のようです」と奥さんのヨモさん(八七歳)も、ニコニコしながら迎えて下さった。
有機栽培で採れたスイカは、実がしっかりつまっておいしかった。日帰りであまりゆっくりも出来なかったが、長男のすすぐさん初めみなさん元気で、一緒に行った家内や私の子供達もそれぞれに、ご家族との話も楽しかった。氏の住まいは、水上村の中でも奥まったところで、実際に住めば色々とご苦労もあるのだろうが、こちらを訪ねるたびに、“いいところだな、またみんなの顔を見に来たいな“と、帰りしなはいつも元気を頂いて帰っているような気がしている。
講演旅行(その1)
私たち夫婦の仲人が以前、大学で講演して、反響はとてもよかったそうだが、そのときの気持ちを話してくれたことがある。
「自分なんかそう大した人間でもないのに、大勢の人間の前で、偉そうな話をして…、講演というのは、終わったあとで、落ち込むぞお」そう言って、笑っていたが、私も同様の経験をさせていただいた。
縁があってあるセミナーに参加させてもらっているが、そこの天草法人会から講演の依頼があって、引き受けた。「俺みたいな男を、そこまで信頼してくれるのか」と「人生意気に感ず」で、依頼してくれた人の信頼に応えなけねばならんと、話の内容を急いでまとめた。時間もあまりなかったのである。
家でできたのを読んで、話のスピードや時間をはかって、大体のところ、これでいいだろうと天草まで行った。途中事務局により、「今から天草に講演に行く」と一言いうと、事務局の人は驚いていた。ほかに立派な人が大勢居るのに何で?と思ったことだろう。誰よりも、この私がそう思っているのだから…。事務局からは、あとで交通費を出してくれるとのこと。
講演の時間は、夕方の六時からになっていた。天草といっても本渡の方だが、そちらのホテルが会場になっていた。少し早めに着き、フロントで予約してあった部屋のかぎをもらった。部屋の中に居てもなんとなく落ち着かなかったので、新聞でも読もうとロビーへ降りると、天草の事務局から、Tさんとおっしゃる方が、私の世話をしてくださることになっているそうで、向こうから挨拶にきていただいた。
しばらくして、今回の講演を依頼してくださった事務長さんから、天草法人会の会長さんを紹介していただいたが、こういう偉い人と、さしで話したことはあまりないので、緊張した。「昔ここで取れたアサリは実も大きくて、おいしかった」と、こんなことを四,五人の人を相手に会長さんは話しておられ、「いい人だなあ、この人のためにも、キチッとした話をしないといけない」と、「人生意気に感ず」という言葉を、自分の心の中に、強く刻み込だ。ただ、そうしようとすればするほど、冒頭に紹介した仲人の言葉が、何となく、頭の中をかすめて行く…、
講演旅行(その2)
演会場に入り、用意された講師の席に座っていると、同じ宗派の人が挨拶に来て下さり、いくらか心強く思ったが、会場の人数が半端じゃない。「なんでこんなに居るんだ…、」と思っていると、後ろの方では席が足りないと言って、パイプ椅子を係りの人が、急いで用意していた。講師の席に座り、顔の表情はにこやかにしているつもりだが、自分が、この講演会の中心に居るというのが、どうもピンとこない。
今回の講演の案内を改めて見てみると、新春講演会及び新年会とある。私がお世話になっているセミナーの、 天草といっても本渡の方だが、そこの法人会から講演の依頼があって、引き受けていた。
以前妹の結婚式で、親族代表の挨拶をしようと前に立って、頭が真っ白になったことがある。今回の講演ではそういうことにならないように、話す内容を文章にまとめて、どうしようもない時は、聴衆の顔は一切見ず、ただ元気よく大きな声で、それを読み上げるだけでもいいと思っていた。
講師として紹介を受け、演台に立って聴衆を見回して、みんなの顔がよく見える。前みたいに頭は真っ白になっていない。「大丈夫だ」と思った瞬間、「ここで一体、俺は何をしているんだ?…、俺はただ、土地家屋調査士の仕事がしたかっただけなのに…、」そんな思いが、頭の上からズドンとのしかかり、途端に膝がガクガクして、「しまった…、余計なことを考えた」と後悔したが、もう遅い。第一声で、声が上ずっているのが、自分でもわかる。
「話の中身はあるんだ。落ち着け」と自分に言い聞かせ、この際聴衆の顔は全く見ないで、原稿を読み上げることだけに専念しようかとも考えたが、百名近い人を前にして、聴衆を無視して原稿の棒読みなど失礼で、とても出来そうにない。話の内容を原稿で確認しながら、そうこうしている内に、どれくらいの時間がたったのだろう。手元で時計を見たら、思った以上に時間が過ぎており、残りはあと十五分しかなかったが、準備してきた原稿は、半分も終わってはいない。まだまだ言わなければならないことが、随分と残ってしまって…、
講演旅行(その3)
私は大体において、引っ込み思案な性格である。そうした性格ではあるが、ある時期思いっきり、自分をさらけ出さなければならない。そうしないとせっかくの人生を、「宝の山に入りて手を空しくしてかえる」(正法念処経)ことになりかねない。それを自分なりにまとめて講演しようと文章を作り、演台に立っていた。長い間考えていたことではあったが、会社を経営する人たちの勉強会での話しに適当であったかどうかは、分からない。社長さんと言われる人たちで、引っ込み思案な人というのは、あまりいないのかも知れない。
ここに目を向けて欲しいという思いはあったので、一生懸命話しはしたが、話がどこかでかみ合わなかったのは、私が自分の個人的な思いに走りすぎたのだ。終わりにさしかかった頃何となくそんな思いがして、時間を考えるとそう長くも話しておれないので、後半はかなり話しをはしょってしまって、終わると同時に、聞いてくれた人たちに申し訳ない気持ちで一杯になった。なぜだろうと思う。話の内容からではない、気持ちの問題なのである。ここはうまく言えない。
翌朝は朝早くから勉強会をしているので来るようにと誘われ、四時半くらいにホテルにまで迎えに来ていただいた。「ここに来た講師の人には、早朝の勉強会に参加していただくようになっております。」と、迎えに来てくれた人は笑っていたが、真冬の早朝なので、いつも参加者は二人だけ、ここに私が加わったので、今日は三人で出来ると喜んでもらえた。暖かくなったら、もう少し参加者は増えるとのこと。
帰りにフロントによって、事務局の場所を教えてもらった。ホテルからはすこし離れていたが、そう難しい所ではないみたいだった。用心のため地図を書いてもらった。土産を用意してあったのでそれもいただいた。なんだか申し訳ない。
事務局は二階にあったのでそこに上がると、中に、この講演の間私の世話をしてくれたTさんがいて、「きのうは田口さんのおかげで、会員が一人増えましたよ」と言ってくれた。私の講演の後で、入会申し込みをしてくれた人が一人いたそうだ。“ へえ、そんな奇特な人がいるんだ”と思ったが、私の話を聞いて入会をしてくれたのなら、私の講演も少しは意味のあるものになる。「ありがたいなあ」と思って、天草を後にした。
熊本の事務局には、県内各地の会員数をボードに示してある。天草から帰って後、天草の会員はいつ増えるだろうと、いつも事務局に行くたびに、わくわくしながらボードの会員数をのぞいていたが、一ヶ月二ヶ月と数字に変化はなく、「俺の話を聞いて入会しようなんて思う人は、いないよなあ…、」と自分で自分に言い聞かせた。あまり過大に期待してはいけないのである。ただ私の話とは関係なく、後になって驚異的に会員数が増えていったことは、記しておこう。
朝礼のデモンストレーション
今日は熊本の有名な某百貨店で、七百名を前にしての朝礼デモンストレーションが六時半からとなっていましたので、五時を少し過ぎたころに起きて、気合いを入れて産業文化会館へ行きましたが、朝が早いので、どこの入り口も開いていません。
産業文化会館からは、すぐ隣の百貨店ですが、それでも七百名近い人を、裏口からだけで入場させることなど、とても不可能です。どうなっているんだろうと思って、専任幹事や、委員のTさんに電話を入れましたが出ません。産文の管理室にも電話をしましたが、ここも出ません。再度専任幹事に電話を入れて、そうしたら、夕方の六時半からでした。
がっくりして家に帰り、そこで女房から、「普段、人の話をよく聞かないからだ(私の話も)」と言われ、「でもなあ、話の流れからしたら、あれは朝…、」と、一人落ち込んでしまいました。
当初の予定では朝の八時半からとなっていたのが変更になって、六時半になったとだけ聞いていたのです。午前か午後かを確かめなかったのは、手落ちと言えば手落ちですが…、少し考え込んでしまいました。後で朝礼研修委員長のAさんから、お詫びの電話がありました。
夕方は予定を入れていたので、朝礼のデモンストレーションは見られないと思い、けどそうなると、七百名を前にしての朝礼デモ、見てみたいなあと、やじ馬根性がメキメキと顔を出して、ダメ元でと仕事先に、今日の予定を一時間ほど繰り上げてくれとお願いしました。すんなりと了解してもらい、六時半近くに地下駐車場へ着きました。そこでたまたま専任幹事と一緒になり、会場について、本番前の練習をやり、マイクや立ち位置を確認しました。
私は広報の担当なのでデモには参加せず、デジカメで写真を撮りました。これは後で○○熊本(会の広報誌)に送りましょう。○○のいい宣伝になります。
朝礼デモの内容を、具体的にここで説明するのは難しいです。とにかく大きな声を出して、きびきびと動きます。体育会系の、応援団の練習のような朝礼に、どう気持ちを寄せて行くかが、ポイントになります。
七百名を想定していましたが、実際の参加人数は、五百名くらいだったでしょうか? ちょっと特殊な朝礼なのかも知れませんが、初めて見た人ではあっても、好感を持って見ていただけたのでは、と思います。とてもいいデモでした。
苦難福門
昔のことを思い出して、いろいろ書いてみる。結果、何となく楽しかったような気持ちになるが、実際に動いているときは、大変だったような気もする。しかし、この大変さこそが、幸せと表裏一体をなしているのだろう。
私が信心しているところでは、「難はみかげ」と言い、また、お世話になっている団体では、「苦難は幸福の門」と教えてくれていいる。先日、お世話になっているところの理事長の話を聞く機会があって、「苦難を克服して幸福になるのではなくて、苦難そのものが幸福なのですよ」と仰ったのが何となく印象に残って、自分なりに考えてみた。
目の前に事が起これば、当然それに振り回される。振り回され続けているうちに、何らかの結論を出さざるを得なくなって、それを幸にするか不幸にするかは本人次第。苦難にあるのではない。この随想を書くことがまさにそれで、「苦難(題材)は幸福(作品)の門」なのである。
苦難を幸福につなげる秘訣は、普段から、整理整頓を心掛けることとも教えてもらっている。そうかも知れないが、自分自身出来ていないので、偉そうなことは言えない。
私が信心しているところの教師は、今年米寿を迎えられた。十数年前に白内障を患い、今では、ほんのわずかの視力しか残っていないとのこと。ご結界と云うところで、いろいろのことを、神様にお願いしていただくわけだが、そこで教師と向かい合いながら「先生、目の見えんけん、不自由かでしょう」家内が心配そうにして言うと、「いや、そんなこともないよ」と笑っておられた。「外に出るのは、さすがに以前のようには行かないけれど、家の中は長年住んで、壁を伝いながらでも、ここ(ご結界)まで来れるし、ここに来れば、どこに何があるかは、目が見えなくても、直ぐに分かる。」そう仰って、机から引き出しを出すと、「ここに鉛筆、ここに消しゴム…、」と、一つ一つ指さして、「神様のご用をさせて頂くのに、何の不自由もない」と、言っておられた。
「先生、凄い!」私も家内も目を丸くして、引き出しの中に目をやった。教師は多くを語らないけれど、大事に、きれいに並べられている道具の一つ一つが、「幸せというのは、こういうことなんだよ」と、雄弁に物語っていた。
喜びの人生を創造する
「あなたが一番楽しいことは何?」と家内から聞かれ、「モーニングセミナー(以下MS)に参加することかな」と言っていたところ、家内もMSに参加すると言うようになりました。家内は身体に障害を持っておりますので、冬場は特にきついと思いますが、2年ほど前から、途中休みはあるものの、MSへの参加を夫婦で続けています。この頃は本誌「心と経営」などで予定表を見て、好きな講師やレクチャラーのお話が聞けるときは、体と相談しながら、よその単会のモーニングセミナーへも、何度か参加しています。
私が役員をしているものですから、5時半の役員朝礼を後ろの席から見ています。毎回見ているうちに、「うちでもあれやろうよ」と言い出し、職場の教養を使っての朝礼を始めることになりました。仕事は一人ですることが多く、一人では朝礼は出来ないなと思っていましたが、せっかく倫理に縁をいただいているのですから、真似事でもこういうことが出来るようになったことは、とてもありがたいことです。
私と家内と向かい合い、畳の上に正座しての家庭朝礼ですが、家内の体調や、私が仕事で朝早く出かけるなどで、毎日ではありません。朝礼一つをとってみても、続けることは、簡単ではありません。様子を写真でお知らせできればいいのでしょうが、洗濯物がぶら下がり、ちゃぶ台を脇に寄せての朝礼ですので、ご勘弁下さい。
専門学校に通っている娘がいまして、「なんだか楽しそうね」と言うものですから、「お前もかたらんか(*注)」と言いましたら、「朝は忙しい」と、そそくさと学校に出かけましたが、こうした会話が出来るのも、ありがたいことです。家庭の中に倫理を少し取り入れたら、家庭がその分だけ明るくなりました。一杯取り入れたら、もっと明るくなると思います。「喜びの人生を創造する」これに対する回答は、生活の中に倫理を取り入れること。これより他にはないようです。
(*注)かたる:熊本の方言で、仲間に加わること。
富士研体験報告 −禊ぎ−
2月16,17,18日の3日間、富士研に行かせて頂きました。5年前初めて研修に参加いたしましたときは、砂利の上の正座等、そこそこに厳しいものはありましたが、今回は禊ぎなるものがあるとかで、せっかく参加するのだからと、チャレンジコースを迷わず(?)選択しました。
早朝更衣室で、ふんどし一つで裸になり、真冬に素足で富士の大地を踏みしめますと、寒さが足のつま先から脳天に突き抜けます。これだけ寒いと、寒さだけで、ハァー、ハァー息が上がり、この後さらに、頭から水をかぶるのかと思うと、逃げ出したくなります。しかし“こんなことではいかん。妻や子のためにも、もう少しちゃんとした人間にならなければ申し訳ない”と、朝焼けで少し赤らんだ富士山の向こうに妻や子の顔を思い浮かべ、父や母に感謝の思いを心の中で述べ、“もう少しましな人間にならせて下さい”と、足下のバケツに目をやりました。
禊ぎに使う水は、昨夜のうちに水を張り、表にはうっすら氷が張って(いたように思いますが)いました。水に対して、父や母に対して、恩のある人に対して、それぞれに感謝の言葉を述べ、今まで見たこともないくらいの大きなバケツの前に身をかがめ、禊ぎの準備を始めました。
まず、バケツの水で眼を洗い、口をすすぎ、左手をぬらし、右手、左足、右足と、それぞれの身体に感謝の言葉をかけながら、徐々に寒さに体を慣らしていきます。この後さらに胸、陰部とぬらし、気合い一つでバケツをかかえ、左肩、右肩、最後に頭から水をかぶります。
最初の一かぶりで寒さに怖じけてしまいましたが、ここまで来たからにはどうしようもないので、2杯目のバケツも同様にかぶりますと、走ってもいないのに呼吸が激しく乱れ、研究員が「バケツの水はまだあります」と言ってくれましたが、3杯目をかぶる余裕はありません。躊躇していると他の人がさっと目の前のバケツを取り、3杯目をかぶるチャンスを逃してしまいました。翌朝は2回目で身体が慣れていたのか、3杯目を他の人と取り合い、水を半分ほど分けてもらい、何とか目的を達成しました。
研修が終わって家に帰り、翌日早速大きなバケツを買い求め、家でも禊ぎを始めました。家でも続けることがチャレンジコースの要件でありました。富士研での寒さに比べれば、家での禊ぎは知れたもので、“これくらいの寒さは何てことはない”と、家での禊ぎの後を薄着でウロウロしていましたら、すぐに風邪を引いてしまい、1週間ほど禊ぎは休みました。寒さを甘く見てはいけません。風邪が治ればまた始め、現在も続けています。
富士研の寒い中で思ったことは、“自分のためだけならば、こんなきついことはしたくない。けれど、妻や子のためにも、もう少しましな人間にならせて頂きたい”と思ったとき、水に向かう気持ちが出てきました。そして今は、“本当にいい楽しみが出来た”と、毎朝バケツに水を張っています。(h19.3.10)
利便性で失うもの
四才の時に小児マヒにかかり、家内は今でも歩くのが少し不自由だ。手の筋力も通常の人よりは少し弱い。子どもと腕相撲をして、子どもが小学校の低学年までは勝っていた。三、四年生のときは勝ったり負けたりだったが、中学生となった今では、勝負にならない。
そんな家内であるが、仕事をしている。職場で少しでもみんなの役に立ちたいと思ったらしく、早めに出勤して、みんなのためにお湯を沸かしておくことを始めた。と言っても、別に大したことではない。電気ポットに水を入れて、みんなが出勤してくるのを待っているだけなのだが、「少ない労力の割には、喜ばれるとたいねえ。」と、張り切っていた。自分の役割を見つけた子供にも似て、ちょっとした生き甲斐にもなっているようだった。
家内の職場は大所帯で、来客や休憩時間等のお茶で、お湯の消費も多く、何度もポットの水をつぎ足さなければならないようで、そうしたお手伝いは、障害者の家内には出来ないので、いくらかでも役に立てることを見つけたと喜んでいた。
「あのお手伝いが出来なくなった。」仕事から帰るなりガッカリして言うので聞いてみたら、職場で今まで使っていたのが古くなったので、新しい電気ポットを購入したそうだ。
「今まで使っていたポットは二リットル入りだったから、洗面所で水を入れて、廊下を渡って休憩室までどうにか運べたけど、今度新しく、五リットルも入るようなのを買わしたとよ。元気な人でもようやく運べるくらいで、私にはとても無理。」と、家内は苦笑いしていた。大所帯であれば、それくらいあった方が便利はいいだろう。世の中が進んで便利になり、五リットルも入るような電気ポットを、安く手に入れることが出来るようになったことを喜ぶべきなのだろうが、何かが違うような気もする。ポットでお茶を頂くという恩恵に浴することは、簡単便利になっているが、大きさや重さが、利用する側の限度一杯で作られていはしないか?元気なときにはいいが、年を取ったとき、弱ったとき、その便利さが、圧迫感としてのしかかることになりはしないか?
「けど、こうしたことを、どう考えたらいいんだろうね?」結論を出し切れないまま、私と家内は顔を見合わせ、苦笑いした。
うさぎの夢
ちいさなうさこちゃん、うさこちゃんとうみ(いずれも、ディック・ブルーナーぶん/え 石井桃子訳 福音館書店刊)等々の、子どもに人気のある、うさこちゃんシリーズという絵本がありまして、その影響だと思うのですが、三歳になるまでの娘の夢は、うさぎになることでした。
どうしてうさぎになりたいと思うようになったのか、分かるようで分からないところがあるのですが、相当な気持であるらしく、夕飯のシチューの中から、野菜だけを選って食べるようになりました。
「いくらがんばっても、うさぎにはなれんと。肉も食べなん」四さいの兄は、いくらか大人の知恵を身につけています。まわりから何を言われてもがんとして聞き入れず、黙々と野菜を食べている様子はおかしくもあり、また、この子はどこか遠くへ行きたいのかな、と思うと、悲しくもありました。そのうち、うさぎの鳴き声はどんなだったかな、という話になりましたが、誰もうさぎの鳴き声を聞いた人はいませんでした。
「あきちゃんがうさぎになったら、お話しできないね。犬だったら、ワンとかキャンとか、お話しできるよ」母親からそう言われても、犬とか猫とかになるつもりはないみたいで、無表情な
顔でどこかを見つめていました。
その夜、私の弟ですが、この子のおじさんが遊びに来ました。
「おじちゃんパンチ」そっと後ろに忍び寄ったおじさんから、いきなりポカリとやられ、さて何とやり返したものかしばらく考えていましたが、何やらニヤッとすると、おじさんのおなかの上で馬乗りになり、「うさぎパンチ」と言ってポカポカあばれ出し、四さいの兄もそれに加わり、空気は一気になごんだのでした。多分、この時にうさぎになりたいという夢は壊れたのでしょう。それとも、もう壊れていたのかも知れません。ガシャンと、何かをたたむ音が聞こえた気がしました。夢を持つのも自分なら、その夢を終わらせるのも自分です。私は心の中で“ガンバレ”と自分の子どもに声援を送りました。
月日は経って、この子も今や中学二年生。今は、漫画家になりたいという夢を見ています。
勘違い
「あの決心が私をダメにした」娘は今の自分を、そうは評価していないみたいだ。
「小さい頃私は、優しい人になろうと思ったとよね。それを私は、優しい人を、おとなしい人と勘違いしてしまって…、あれから私のやることなすこと、何かおかしくなってしまった…。」三才の時、何故か強くそう思ってしまったと、ぼやいていた。
犬を飼うようになった効用の一つは、犬を散歩させながら、娘との会話が多くなったことだろう。親子とはいえ、世代も違うのに、いろんな話ができるものだと、犬を飼うようになったこの頃になって、感心している。こうした機会を持つことに、もう少し早く気がつくべきだったとも思うが、娘は、どこかで歯車がかみ合わないまま、ここまで成長してしまったとでも思っているのだろうか?そんな気持ちでいるとしたら、淋しいが、そんなこんなで私の子育ては、どうやら終ってしまったみたいだ。
「そういう深い悩みがあったとはつゆ知らず、親としては、すまんことだったね。」話を聞きながらどうでもいい返事をしたが、「いいよもう。私もこんな風に、変な人間になっちゃったし…、」と、私の知らないところで娘なりに、何らかの結論を出しているのだろう。この親は、何の役にも立ってない。
「大丈夫だよ。おまえの親も、結構変な部類の人間だから…、」
「答えになってない。」
「とにかく、何とか生きて行こう。」
「うん、そうしよう。」
娘とのこうした会話が楽しみで、犬の散歩もなるだけ一緒に行くようにしているが、この頃は、娘の足取りが以前と比べて格段に速くなり、犬の後始末をしながらでは追いつくのがやっとで、会話をするのも、ちょっと大変になった。
町内広告
自宅近くの電柱に広告を出している。どれほどの宣伝効果があるのか、はなはだ疑わしいが、中学生の娘が通っている琴教室主宰のコンサートがあるので、事務所の電柱広告の下に、それ用のポスターを貼ったら、直ぐに剥がされてしまった。私が出している電柱広告の上に貼ったのだから、遠慮はいらないと思っていたが、そう言う問題とはまた別なようだ。
「町内会の掲示板に、ポスター貼れないかなあ?」娘が聞いたので、自治会に頼んでもいいと答えた。そこでなら剥がされる心配はないし、雨にも濡れない。「でも、一つだけ条件があるよ」と言って、私は引っ込み思案の娘に説明した。
「町内会の掲示板に出すなら、たとえ端役でも、「コンサートには、八町内の田口〇〇も参加します」と、一言入れないといけないよ。でないと、掲示板を見る人が、八町内とどう係わっているのか分からないからね」私がそう言うと娘は「それはイヤだ」と言った。私もそうだったので娘の引っ込み思案は良く分かる。去年も今ぐらいの時期にコンサートがあって、それに参加する為、朝早くから着物の着付けに美容院へ行って、きれいに着飾った娘と家族みんなで写真を撮ろうとしたが、なかなか写ろうとしないので、なだめ、すかして、最後は脅して、ブスッとした顔の娘を写真に収めた経緯がある。
琴は、二宮晶代先生(植木在住)の演奏に娘が感動して、演奏会が終了した直後に、「琴を習いたい」と言ってから三年、これまで続いている。上手下手は別にして、好きで続けているのが何よりである。「町内の敬老会で演奏したら、お年寄りは喜ぶがなあ」と、琴の音色を聞く度に、いつもそう思っているが、本人にその気持ちはなさそうだ。一人で演奏するには、腕も度胸もまだまだなのだろうが、人前で独奏するくらいの所まで行けば、娘の引っ込み思案も、少しは良くなるかなあ、そうなれば、色々と素晴らしいところが表に出てくるだろうなと、そんな日が来るのを楽しみにしている。
♪うちの父ちゃんは♪
まだ私が、会社勤めをしていたときのことです。家に帰って玄関の戸を開けましたら、小学三年生の娘が、仕事帰りの私を上目づかいにチラッと見まして、♪うちの父ちゃんは、サラリーマン♪と、歌い始めました。娘はこれから、隣の家へ遊びに行く様子でしたが、私は、娘が歌う内容にびっくりして、その場に立ち尽くしてしまいました。
『会社勤めの私を、的確に、節まで付けて…、』そう思った次の瞬間、『この子は天才だ!』と、体中に衝撃が走りまして、どうしようと思いました。鼻歌とは言え、こんな歌を作れる才能は、私の及ぶところではありません。私は娘に『負けた…』と思い、うなだれてしまいました。この頃の私は、会社勤めをしながら土地家屋調査士の勉強を続けていましたが、この勉強は、ある程度、家族の生活を犠牲にしないと出来ない性質のものでした。しかし、これだけ凄い才能を目の前にしましたら、私の勉強などは霞んでしまいます。娘の才能を伸ばすことに、自分の人生を賭けるしかないのです。ピカソの父親がそうでした。モーツァルトも、一人の才能に、父親が付き添って教えたのです。そうした私の心中を尻目に、娘の歌は続きます。
♪満員電車が、我が人生♪熊本では満員電車など、そうはないでしょう。多分、東京の通勤風景をテレビなどで見て、想像力を働かせたのかな、凄いと思いました。
♪足も踏まれりゃ、頭も下げて♪満員電車だったら、そう言うこともあるでしょうが、ここで私は「…ん?」と、頭の中にクエスチョンマークが浮かびました。負け惜しみで言うのではありませんが、なんだか出来過ぎているような気がします。『何かおかしいな?』首を傾げていますと、
♪愛想笑いの五十年♪と続けて歌いましたので、「それは何だ?」と訊ねました。当時私はまだ、四十にもなっていませんでした。
娘は何食わぬ顔で、『おそ松くん』という、テレビアニメの主題歌だと教えてくれました。「おまえが作ったんじゃないのか?」拍子抜けして聞きますと、「何言ってるの」と言い残して、外へ出て行きました。娘は天才ではありませんでしたので、私はホッとしました。まだこれから、自分の勉強を続けることが出来ます。それにしても、もし彼女が天才だっとしたら、私はどのようにして、娘の才能を伸ばすつもりだったのでしょうか? 『ウーン…、』と、考え込んでしまいました。
この歌ですが、歌手の細川たかしさんが、独特の張りのある声で歌っています。一度、聞いてみて下さい。
藍鉄鉱(らんてっこう)
中二の娘が、夏休みの自由研究に、何をしようか、植物の観察記録を取ろうか、小学生ならそれもいいけど、熊本に何か名物はないかと聞かれて…、
娘が絵を習いに通っているところで、そんな話をしていたら、絵の先生が「金峰山の方へ行った川床で、藍鉄鉱(らんてっこう)が取れるよ」川床にバールを突き刺して、思い切りこねったら、簡単に採集できる場所を知っていると言う。「こう云うのだけどね」と言って、指先ほどの鉱石を見せて貰ったが、岩の上に薄い藍色で、小さな葉っぱの形が見えた。岩石の成分が別な物に変わる置換という作用で、空気に触れた葉っぱの部分が藍色に変色した、化石の一種なのだそうだ。鉱物にそれほど詳しくない私などは、見落としてしまうような物だった。鉱物採集の道具は、職業柄、地面を相手に仕事をしているので、コンクリートを砕く大きめのバールに、つるはし、それと大ハンマーなどの道具は、私が持っていると言った。娘に鉱物採集はどうだと聞くと、「そっちがいい」と、案外乗り気だった。「女の子だから、こう言ったのあんまり好きじゃないかと思ったけど」意外な感じで私が聞くと「これなら自由研究一日で終わる」と本音を言った。
絵の先生と日時を調整して、三日後の午前中を予定していたが、前日が大雨で、当日は晴れたが、雨の後の川は危ないと言うことで、予定を少し先に延ばして、その間に、藍鉄鉱のことを図書館で調べた。
木の葉がきれいに置換した物として、熊本県金峰山産の藍鉄鉱が鉱物図鑑に載っていた。図鑑の解説によると、金峰山の藍鉄鉱は、全国区の知名度があるようだ。「こんな所に熊本の名物があったぞ」市立図書館で娘と鉱物図鑑を見ながら、思わぬ掘り出し物に何だか嬉しくなってそう言った。「名物と言っても…、こんなの知ってる人、ほとんどいないと思う」娘は冷めた口調で言った。たしかに、鉱物採集が趣味という人でもない限り、知っている人はいないだろうと、娘に同調しながら、それでも熊本の、しかも私が住んでいる直ぐ近くの金峰山でしか取れない物があるというのは、何となくわくわくする。鉱物採集の結果報告は後日。
川の歴史
場所を知っている友人がいたので、藍鉄鉱という、熊本の、それも金峰山でしか取れない鉱石を採りに行った。娘(中二)の夏休み自由研究の為だが、金峰山沿いの川床が採集場所で、膝の深さまで浸かり、両手を水の中に入れて、泥岩質と言われる部分を採集する。友人の話によると、昔は泥岩が川の表に出ていて、簡単に採集出来たそうだが、いつの間にか護岸工事がなされ、泥岩質の部分がごっそりさらってある。その分水が深くなったのだと言う。深いとは言っても膝の深さだから、真夏の水遊びにはちょうどいい。友人の案内で、私、中三の息子、娘の四人が川の中に入った。家内は川の中には入らず、上でその様子を写真に撮っていた。中に入った私たちの服は濡れ、泥も少し付いたが、三,四十分ほど水遊びをして採集を終わらせた。泥岩を持ち帰り、乾かして、割ってみないと藍鉄鉱が採集できたかどうかは分からない。結果から言うと、採集は出来はしたが、泥岩の中の藍鉄鉱は、せいぜい小豆大の大きさであった。採れただけでも良しとしなければならぬのだろうが、標本としては迫力不足である。娘は、今回採れた分だけでいいと言ったが、私は、“もう少し大きいのが見てみたいなあ”と、何となく未練が残った。
家に泥岩を持ち帰り、陽の当たるところに広げると、娘はそれを写真に撮った。乾いて細かく砕いたところも写真に撮り、割って藍鉄鉱が出た何片かのかけらも写真に収めた。私たちの時代はせいぜいスケッチに収めることしかできなかったが、シャッターを簡単に押している中学生を目の前にしていると、自分の中学時代とついつい比較してしまう。資料としての写真も撮り終わり、現像に出そうとして、フィルムが数枚残っていた。何でもいいから撮るように言ったが、娘は、これ以上の写真はいらないと言った。「もう一度金峰山に行ける?」と言うので、「ここから車で三十分とかからないから、いいけど、行ってどうするんだ?」娘に聞くと、川の中に入って採集している様子は撮っているが、場所が分かるように、少し遠景から川を撮っておきたいと言った。「どうせ暇だから連れて行ってやるよ。ついでに藍鉄鉱を、もう少し採って来よう」そう言って私は、車にスコップ、バール、大ハンマーと、少し厚めのビニール袋を何枚か積み込んだ。三袋採集して家に帰ったが、前回よりは少し大きめの藍鉄鉱が採れた。
鉱物図鑑の解説によると、金峰山で採れる藍鉄鉱は、化石となった枝や木の葉が、ある成分なり元素が別の物に変わる、『置換』と言う作用により藍色に変化した物である。あまり見栄えのしない石ころだが、娘と一緒に鉱物図鑑を開いたり、化石となった木々の葉っぱや、護岸工事を通して川の歴史を思ったり、娘が藍鉄鉱採集を通して学んだことは、私にとっても、改めて地元の山や川に目を向ける、貴重な体験になった。
巣立ち
外での測量作業は、とても暑い一日だった。中学一年生の娘が、アスファルトに落ちていたすずめをを拾って帰っていた。娘、家内、母のしんみりとした奥では、一回り小さいすずめが、綿を敷いた大きめの皿に中で、グッタリしていた。娘は私と目が合うと直ぐ、獣医さんの所に行こうと言った。あいにくと日曜日で、しかも私が帰ったのは夕方だ。病院には誰もいないだろうし、どうしたらいいだろうと思っているうちに、すずめの容態が急変した。「小さな命」と題して、この時のことを娘が作文にしている。
『(前半略)私はすずめに向かって水をしみこませた綿をつき出しました。すずめは必死で綿に近づきますが、もうだいぶ弱ってしまっており、そこまで行くことすらままならない様でした。私はもう片手ですずめを持ち上げ口の中に直接綿を入れてみました。すると舌を動かして綿をなめだしました。でも、あまり水が出てこない様で、舌をペロペロ動かすだけで飲んでいる様子ではありませんでしたので私は綿を水にひたしてからもう一度同じようにやってみました。するとすずめは舌を動かすのをやめて、あのふくれあがったくちばしを使い綿をかみしめだしました。すずめののどがゴクゴクなっているのを私は手で感じました。(ああ、もうだいじょうぶだろう)私はそれをかくしんしました。すずめの口はまだ動いています。しばらくして口をとめました。まだ水を飲んでいるようなそのままの形をしていました。でも、もう水を飲まなくなったので、(つかれたのかな)と思い、そっとベットへもどしました。が、どうしたんでしょうかまったく動きません。目は開いているのに、ついさっきまでのように羽をバタつかせたり、立ち上がろうとしたりしません。それどころか、羽は閉じたまま、足はだらんと垂れていて動く気配すら感じられません。(後半略)』
その晩、信心しているところの形式に従って通夜をした。中二の息子が、般若心経を暗記していたので上げさせた。皿の中のすずめは子供とも大人とも区別が付かず、若いすずめだった。
「このすずめは、巣立ちしたばかりだったんだよ。親元を離れたけど、うまく大人になれなかったんだね」自分の子供が、いい具合にこの家から巣立ちしてくれるかどうか、何年か先のことに思いをやった。翌朝すずめは、白いものにくるんで庭に埋めた。
娘の作文は文集に選ばれた。作文に私や中二の息子は出てこない。
「お経上げてやったのに、何も書かないと云うのはないよな」息子に言うと「そうだ、そうだ」とおどけていた。せっかくだから、文集は大事に取っておこうと言ったが、娘は「すずめにお供えする」と言った。「お供えは、別なものでいいだろう」と言っても、「すずめのことを書いて選ばれたんだから、すずめにお供えする」ときかないので、埋めた墓の隣に置いた。濡れないようにビニールで二重三重にくるんでいるので、誰も中を見ることは出来ない。墓の横を通るたび、どのようにして子供達がこの家から巣立って行くのか、ビニールの中身を気にしながら手を合わせている。
石の効能
娘が、友達の誕生祝に何か買うというので、新市街の下通りまで連れて行った。予算は二千円程度という。安いアクセサリーを探しているうちに、宝石とまではいかないけれど、きれいな石が、手ごろな値段でおいてあるところがあって、中に入ると、客は主に若い女性で、結構にぎわっていた。
多分に少女趣味的な店で、娘と一緒ででもないと、中には入らないだろうな、というような気恥ずかしさもあったが、今は、こういうのがちょっとしたブームになっているのだろう。きれいに磨いた小粒の石は、何百円といったものから、高いものでも千円単位で、娘のような中高生が、小遣いをためて買うには、ちょうどいいくらいで、にぎあうのも理解できる。
娘が品物を選んでいる間、私は入り口のところで、いろいろな石が小皿に盛ってあるのを眺めていた。ところで石には、二百円から六百円くらいの値札と一緒に、効能(?)も書かれていた。水晶は潜在能力を引き出す。ほかの宝石はあまり知らないけれど、それぞれに、美容であったり、才能であったり、恋愛、その他etc…,
そういった石を眺めながら、さて、私が今一番欲しいものは何だろうと、自分の願いと、石の効能とを見比べていった。石の効能(願い)はどれもいいけれど、どれもそれほどまでには欲しくない。しいて言えば、宝くじにでも当たるようにと、幸運くらいなものか。そんなことを考えていると、「〇〇さんは漫画家志望だから、インスピレーションが出るネックレスを選んできた」と、奥から娘が、嬉しそうな顔をして出てきた。あまりにも素直に、うれしそうな顔をしているので、こちらもちょっと嬉しくなるが、夢を忘れた中年男とは違って、中学生の娘には、まだまだいろんな願い事が、一杯あるようだ。
長生きしてネ
息子が四才の頃、私が仕事から帰りますと、何が原因か分かりませんが、母親と言い争っていました。「母ちゃんには何も買うてやらん!おんぶに抱っこもしてやらん!」母親のせりふではありません。四才の息子が言っているのです。何のことだろうと思い、家内に聞いてみますと、息子から「僕が大きくなったら、母ちゃんに色々買ってあげるし、おんぶや抱っこもしてあげるから、今は僕を抱っこして」という風に、家内と息子との間で約束が出来ているらしいのです。多分、家内がその様にし向けたのでしょう。私の知らないところで母親は、着々と自分の老後の準備を進めておりました。息子は、自分が怒っている目の前で、父親と母親が笑いながら話しているのがしゃくにさわったようで、さらに語気を強めました。
「母ちゃんは、ウーンと長生きしなっせ!」と、母親をにらみつけました。口論の最中でしたので、母親はちょっと首をひねりましたが、「ありがとう…」と答え、私はそばにいて、ケンカしている割には、優しいことを言うなと安心していました。
「ありがとうじゃない!…、」一つ間を置くと、「長生きしたら、後は死ななんと!」泣きじゃくりながらそう言いましたが、次の瞬間、息子の顔から、スーッと血の気が引いていくのが分かりました。自分でも、恐ろしいことを言ってしまったと思ったのでしょう。私達大人が長生きという言葉使うとき、それが過去形となったとき、長生きした人とは、すなわち死んだ人のことに他なりません。四才の息子の耳に「長生き」という言葉は、残酷な響きとして聞こえていたのです。
「気づかなかったけど、長生きして下さいというのは、恐ろしい言葉だったんだね」と、私と家内は顔を見合わせました。二人とも顔は笑っていますが、内心ではギョッとしています。このことがあって以来我が家では、”長生きして下さい“と言う言葉が禁句になってしまいました。お年寄りと会ってお別れするときは、”どうぞ体に気をつけて、長生きして下さい“と言ってお別れしたいのですが、”長生きして下さい“と言う言葉が喉元まで出かかると、あわてて引っ込めてしまいます。しかし、”母ちゃんは、ウーンと長生きしなっせ”この言葉で、一番傷ついたのは息子です。周りの人やテレビから、”長生きして下さい“と言う言葉が聞こえるたび、ビクビクするようになりました。大人の私がビクビクしているのですから、無理もありません。
”長生きして下さい“この言葉を取り戻すチャンスは、案外と早くに訪れました。私の義父、つまり息子のおじいちゃんの誕生日祝いを自宅でやりました。ごちそうを食べる前に、家族の一人一人が、おじいちゃんにお祝いの言葉を贈ることになり、息子は自分の順番が来ると何やらもぞもぞとして、照れくさそうに「じいちゃん、長生きしてネ」と言いました。するとみんなは「おおっ」と歓声を上げ、拍手をしたのです。”長生きして下さい“この言葉を呪縛の言葉にしたのは息子でしたので、呪縛を解くのは、四才とは言え、息子にしか出来ないことだったのです。
雑種の仔犬、譲ります
小学校六年生だった息子が、車の助手席からペットショップのウィンドウに『雑種の仔犬、譲ります』と、張り紙をしてあるのを見つけて中に入った。店の中にそれらしい仔犬は見つからず、店員に聞くと、ここから車で十分程行ったところに里親がいるとのことだった。費用が、ただと聞き、息子はさっと目の色を変えた。「見るだけならいいど?」多分、見るだけではすまないだろうと思いながら、店員から教えて貰った地図を頼りに行った。電車通りから少し奥に入った閑静な住宅に、犬が何匹もいて、直ぐにそれと分かった。
ペットショップから聞いて来たことを話すと、電話で連絡が入っていて、「どれがいいですか?」と、まだ目が開いたばかりぐらいの仔犬が二匹、段ボール箱の中に小さく入っていた。何匹か生まれたが、引き取られて、この二匹だけが残っているとのこと。「どれがいい?」息子に聞くと、「ウーン」と考えながら、二匹の頭を代わる代わるなでていた。
二匹の仔犬はオスとメスであった。メスは、子供を産んだとき育ててやれないので、オスがいいと思ったが、二匹の仔犬を比べると、オスの仔犬は、どことなく神経質な感じで、メスの方が、比較的ゆったりしていた。「こっちにしようか?」メスの仔犬を指さすと、息子はそれでいいと言った。「じゃ、後でもらいに来ます」席を立とうとすると、「どうぞ、連れて行って下さい」とおっしゃるのには少し戸惑った。「お別れとかしなくていいんですか?」連れて帰っても、犬を飼う準備は何も出来ていないので、そう言った。動物嫌いの家内を、説得しなければならないが、家内と話し出したら、犬を飼うのをやめようと言う結論になるだろうなと、短い間に色々と考えた。
「大事に可愛がって下さい」里親の人がそう言って、私の腕に仔犬をポンとのせると、もはや万事休すである。仔犬を連れて帰るしか道がない。「良かったな」仔犬を息子に渡しながらそう言い、里親にお礼を言って車に乗り、窓を開けて再度お礼を言うと、「この犬の誕生日は、六月二十五日です」と、教えて下さった。息子は仔犬に夢中で、里親の方がずっと手を振っておられたことに気づいてはいなかったが、角を曲がるところで姿が見えたので、息子と私は頭を下げた。その晩家族会議を開いて、チェリーと名前を付けた。私と、息子、娘の三人で犬の世話を三年続けている。子供にはたまに注意してやらないと、世話を忘れることもあるが、今では、家族の一員になっていると言っていいだろう。みんなで可愛いがっている(かな?)。
雑種の小犬、譲ります.pdf
水道管
今、水道のない家庭はないだろう。私が小学校くらいのころまでは、各家庭に水がめがあるのは当たり前で、水道一つを、四、五軒で共有して使っていた。
もともとが大工なので、家の修理はよくやっていたが、父が大家さんの了解を得て、あるとき家の中に水道管を引いたのは、ちょっとした事件だった。
家の台所で、炊事や洗い物ができるので、だいぶ楽になったと、母は喜んでいた。さすがに洗濯まではできないが、水道というのは、便利なものなんだなあと、子供ながらに感心したものである。水道端から我が家に引いた水道管は表に出ていて、冬場はよく凍ったが、それでも以前と比べれば、格段の差であった。父が亡くなったあともこの水道は機能して、よく母を助けてくれた。
私が結婚して、子供が生まれるのを機に、母には旧家を引き払ってもらい、現在は私たちと同居してもらっているが、息抜きにもなるらしく、母はたまに、大家さん宅に泊まりがけで出かけることもある。玉名のほうだが、お墓は今でも旧家の近くにあるので、そちらへも行くことも多い。私たちが出て行った後は、誰も入る人は居らず、少し荒れたところも出てきたが、私や妹弟たちにとって、懐かしいところであるのに変わりはない。
旧家を感慨深げに眺めていると、「写真とったら」と家内が言ったので、どこで写ろうかと考えて、父が引いた水道管の上に手をやって、それを息子に写させた。「親父が引いた水道管を、息子の私が触り、それを孫に写させる、これぞ男のロマンよ」などと、内心いい気になりながら、父が作った水道管を撫でてみた。
老人と海
自分の生き方として、バイブルと呼べる書物はなんだろうと話し合って、安保世代の友人は、白戸三平の「忍者武芸帳」であるとか「カムイ伝」を上げていた。いずれも漫画本だが、内容や、その書物から受けた影響を、いきいきと話しているのを聞きながら、年代的なもので、私が一番影響を受けたものを考えてみたが、何も思い浮かんで来なかった。それでは詰まらないので考え方を変えて、たとえ一時期でも、自分の人生を支配していたものはなんだろうと、思いを巡らせてみると、ヘミングウェイの『老人と海』が浮かび上がってきた。
書物よりも、映像から受けた衝撃であった。私が小学四年生の時に、テレビで放映された。内容は、中南米の貧しい老漁師が、マカジキと四日間格闘するというもので、原作は勿論だが、この作品は、何よりも映像がいい。レンタルビデオがあると教えて貰ったので、三十何年ぶりかで、映像と再会した。小学四年生で何故あれほど感動したのだろうと見直したが、老人に寄り添う少年が、ちょうど十歳くらいで、その少年の目を通して、腕っぷしのいい老人の生き方に、憧れていたのだと知った。この老人のようになりたいと思っていた。
父が、将来何になりたいかと言うので、十歳の私はちゅうちょせず「漁師」と答えた。意外な
答に父は、「捕鯨船に乗るのか?」と聞いた。当時は、鯨も安く手に入っていた時代だった。「違う」と言うと、「なら、マグロ船か?」と聞いてくるので、「マグロは当たっているけど、マグロ船に乗るんじゃない」と言った。「じゃ、どうするんだ。バスでも直ぐ酔うのに、船に乗れるのか?」と心配するので、「沖に小舟を出して、でかいマグロを釣るんだ」得意になって言うと、「そんなんで食っていけるか!」と、父に一喝されて、私の夢は簡単に終わってしまった。今までで、自分が一番憧れた生き方は、『老人と海』の老人だったと、この年になってしみじみ思う。現実性は皆無と言っていい夢だったが、あまりにも簡単に終わらせてしまった。こわい父で何も言えなかったけど、もう少し粘るべきだったかなあと、亡くなった父のことなども思い出した。
立場は変わって、今は私が、子供に将来何になりたいかを聞いている。やはり父と同様「そんなんで食っていけるか!」と一喝しそうになるが、可能な限り、人生は夢を見続けていた方が楽しいということを、じつは良く知っている。
町内消防団
今の住所に移り住んですぐの頃、五月の最終日曜日、良く晴れて気持ちのいい一日だった。町内消防からの案内があって、梅雨入りする前に土嚢を作るので、町内に住んでいる若手は集まるようにとのことだった。消防に入ったつもりはなかったが、二ヶ月程前、町内の回覧板が回ってきたときに、家内が該当者として、私の名前を記入していたらしい。
午前中くらいで終わるだろうから、昼からどこかへ行こうと、当時、保育園に通っていた二人の子供達に約束して、集合場所へ行った。少し早かったが、草刈機を動かしている人がいたので声をかけると、「みんな時間通りにはなかなか来んですもんね、ゆっくりしとかんですか」と言ってくれた。朝は幾分涼しいが、八時を過ぎると日差しは急に強くなる。草刈りも一人では大変なので、手伝おうとしたが、草刈り機の側をうろうろしていると危なくて、かえって邪魔な様子だった。近くを通る小さな川を「ここは今なら、蛍の出よるですよ」とも教えてくれた。
予定時間をいくらか過ぎて集合し、三十人近く集まったが、先ほど草刈り機で作業していた人が団長だった。この地域一帯湧き水が豊富だが、反面鉄砲水も、年に何件か発生している。作った土嚢は、町内の三カ所に分散しておくが、数を何百と作ると言うので驚いた。「用心せんと、ここは湿気の多して、ヒラクチ(マムシ)の出るですもんね」一緒に作業していた人が言った。その後「まだ咬まれた者は居らんですけん」とも言ってくれたが、その後の作業が、何となく腰の引けたものになってしまった。団長はと見ると、みんなとは別な所で草を刈っている。一区切り付いたところで「休憩しよう」と、団長が声をかけた。「もう少しで終わるけん、早く終わらせて解散しよう」誰かが言い、私もそうだと思ったのだが、「俺は役目だけん、十一時まで、みんなばここに引き留めておかなんとばい」と団長が言った。早く終わって早く帰ろうと、内心そればかりを思っていたので、意外な言葉に聞こえたが、気骨がある人のようで、「面白いリーダーだな」と、興味を持ったことだった。
作業していた場所から少し離れた木陰に団長が腰を下ろすと、みんな適当にそこいら辺に腰を下ろして道をふさいだ。作業に入ってから来た人もいて、消防団員だけで三十名以上はいただろう、こんな大勢で道をとうせんぼしたのはいつ以来だろうと思いながら、腕時計の方を気にしていると、この後公民館で、反省会をするとのこと。反省するのに、なぜ豆腐や天ぷらを買いに行くのだろうと思ったが…、その日私の子ども達は、家で美しい青空を、一日中眺めていたそうだ。
ガキ大将
私が子どもの頃は、隣近所集まって、何かをするのが日課であった。隣近所に大きな子がいなくて、いつの間にか私がガキ大将になっていた。当時、自分がガキ大将になっているという思いはなかったが、今から思うと、私もガキ大将をやらせてもらっていたのである。
私が最年長で、小学校に入学したばかりくらいの子が身の回りに集まって、今日は何をして遊ぼうかということになって、「この前の遠足、楽しかったな?」私が言うと、「うん、楽しかった。」と、回りに集まった小さな子たちはその通りに返事をした。 「楽しかったから、もう一度あそこに行こうか?」ということで話をまとめて、「じゃ、今度の日曜日、お母さんに頼んで弁当を作ってもらって来い。」と言うと、みんなは目を輝かせて嬉しそうだった。
今と違って、世の中はまだ貧しい時代だった。お菓子は望むべくもないが、弁当も作ってもらえるだろうかと心配していたが、日曜日の朝、集まったみんなの顔を見て驚いた。小さな子どもたちとはいえ、『さあ、今から行くぞ。楽しむぞ。』と、気合い充分なのである。その気合いに圧倒される思いで目的地に向かって出発した。高学年ではあったが、小学生をリーダーにしてのピクニック、今ならあり得ないが、何となくわくわくしながら、この前の遠足のコースを一つ一つ確かめながら先へ進んだ。途中目印となるところにお地蔵さんがある。そこで石積みをしていた
ら、先生から怒られたので、今回も石を積んだ。 目的地は原っぱである。何もないが、小学生が数百人、走り回れるだけの広さがある。山沿いの道から広場がのぞくと、みんな一斉に「わーっ!」と走り出したが、私が一人だけ、全然楽しくない。考えてみれば、私一人が五年生で、あとはみんな一,二年生なのである。一人で走り回っても、楽しいはずがなかった。「楽しいか?」小さい子たちに聞くと「うん、楽しい。」と答えていたが、どうも私はぴんと来ない。「この前は、あんなに楽しかったのに…、」と、この時思ったのは、一人遊びの難しさであった。同級生のみんなと一緒だったから楽しかったのだ。自分一人で、我を忘れるくらいの楽しい遊びって、なにがあるのだろうと思ったものだった。
今度は私が小学生の子どもを持つ親になって、ひょんな事から子ども会の会長を引き受けることになって、一番初めの行事が、顔見知り遠足。小学生の場合、六年生と一年生とでは、体力の違いがあまりにも大きいので、どうしても一年生にあわせた行事内容になってしまうが、町内に案内を出したら、かなりの参加申し込みがあって、子供と父兄で百人を超えてしまった。その出で立ちだが、リュックに水筒、帽子もきちっとあごひもを結んで、これもまた、気合い充分なのである。
「これらの人たちを、どうやってまとめたらいいんだろう…? どうしよう…、」不安な顔をしていると、「ほら、田口さん、しっかり!」と、役員のお母さん方から言われ、「では、これから出発します。」と挨拶をしたのが、私の会長デビューだった。大人になってもやっていることは、子どもの時と大して変わりはない。
子ども会
地元の子ども達の、ちょっとしたアイドルを経験させて貰った。町内会で子ども会のお世話を三年、やる羽目になって、昨年、ようやく次の人に会長を譲ることが出来た。
「私はあまり人を知らないから、どなたかいい人を推薦して下さい」子ども会で中心になって動いてくれているお母さん方にお願いした。「もう少し続けてみたらどうですか?」と、慰留(?)して下さる方もいらしたが、私の子どもは二人とも、子ども会の方は卒業させて貰い、活動をするにも、隣に自分の子どもの顔がないと、色々お世話をしていても、少し淋しい。やはり、現役の子どもがいる方の方が、やっていて楽しいだろう。とは言っても、次期会長はなかなか決まらず、従って子ども会としての活動は出来ず、私が、ダダをこねているような格好になっているのかなあと反省もしたが、ここは少し、無理を通させて貰った。
私がある程度本気だと知ると、お母さん方は「〇〇くんのお父さんは、世話が行き届きなさる」とか、「〇〇ちゃんのお父さんは、幼稚園でもよくお世話をしていた」とか、いくらか真剣に人選を始めてくれた。
「別にお父さんではなくても、お母さんでもいいんじゃないですか?」と私は言った。会長は私だが、活動の実際は、すべてお母さん方で動いていた。
「いやあ、やっぱり会長はお父さんでないと…、」と一人のお母さんが言い、もう一人が「男は会長ぐらいせんなら、益々子ども会に関心を示さなくなる」と言った。もっともな意見である。
結局、総務をしてくれていたお母さんのご主人が引き受けて下さることになり、無事引継を終わらせることが出来た。ちょうどその頃は、この随想の掲載を始めた頃で、私は「ひまぐらし」という題で文章を載せていた。熊本では、ひまぐらしという言葉を、人のお世話をするときに使う。ということを書いたのだが、会長選考のまっただ中でもあって、これをお母さん方に見せる気はなかった。「好きなだけ、ひまぐらしに精を出して下さい」とも言われかねない。が、次期会長も決まったことだしと、引継の時、みんなにこの文章を配った。読んだ一人は、「会長さんが、子ども会の事ば書いとらす」と、喜んでくれた。
自分の子どものしつけや教育を反省すると、人様の子どものお世話ができるような状態ではないのだが、ランドセルをしょって通学している子ども達を見ていると、他人さんの子どもながら、成長が楽しみで、朝逢ったら「おはよう、行ってらっしゃい」と、声を掛けている。このとき、小さい子ども達は、ニコッとしてくれるが、子ども会の会長をした、これが役得かなあと、この頃思っている。それと今は、子供とは書かずに、「子ども」と表現するようになっているそうで、これも、子ども会の活動を通して、知ったことである。
夢の暗示は何かと魅力的です。少しばかり寝とぼけたようなお話をします。
西日本新聞や、詩と真実という、同人雑誌に発表したものです。
瞑想の中の魔神
腹式呼吸をマスターしたいと思っている。自分なりの呼吸法をマスターすることが、長寿の秘法とも聞いて、若かりし頃(今でも十分若いが)自己催眠術だとか、瞑想をマスターしたいと、本を買って、我流で挑戦したことがある。最初の呼吸法のところで行き詰まって、なかなかうまくは行かなかった。
本によれば、腹式呼吸の代表的なものは、イビキだそうで、気持ちよさそうに寝息を立てている、あの呼吸を、意識のある状態ですればよいとのこと。生半可な知識ではあったが、こういうことも、知っておくものである。
真夜中に何気なく目が覚めて(目は閉じたまま)、ちょっと不思議な状態だった。意識ははっきりしているのだが、体の方は、ぐっすりと寝た状態で、呼吸が、大きくゆっくりとしているのがわかった。“ああ、本に書いてあったのは、このことだ”と、私は意識をそーっと集め、呼吸を確認した。大きくゆっくりと、しかも深ーい呼吸なので、とても気持ちがよかった。私は、呼吸を乱さないように用心しながら、思考を巡らせた。こういう状態で瞑想に入れば、なにか答えが出るんではないかと。この際だから、今一番知りたいことを尋ねようと、私は何者かに対し、質問を投げかけた。
「どうしたらお金が入るか? お金が欲しい、お金が欲しい…、」と、私は無念無想(に近い状態)で、ただ一心に「お金が欲しい…、」とだけ、唱え続けた。どれほど唱え続けただろうか? 意識の奥の方で何者かがむくむくとして立ち上がり、“何を浅ましいことを言っているんだ”と言わんばかりの顔で、私を睨み付けた。
“おまえはさっきから、金が欲しいと言っているが、一体どれくらいの金が欲しいんだ? ”その魔神のような男(かな?)は、私に問い詰めた。私はとっさに、夫婦共稼ぎで、生活がやっとだからと考え、私の給料が一、家内の給料が一、それに少しの余裕もほしいので、それが一、合わせて三、という数字を思い、“今の三倍の給料が欲しい”と答えた。そうすれば、家内に仕事をさせなくてすむのである。すると魔神はすかさず、“だったら、今の…、”と言った。さあ、いよいよ長年の疑問(願望)に答えが出る。魔神は何て言うのだろうと、私は固唾をのんで、次の言葉を待った。“だったら、今の三倍働け”と魔神は言った。「三倍欲しかったら、三倍働けか、なるほど理屈だ!」感心すると同時に私の呼吸が乱れ、魔神はすーっと消え、私は布団から跳ね起きた。そして悔やんだ。もっと有意義な質問をすればよかったかなと、人生いかに生くべきか? とか…、
それ以来、魔神とは会っていない。心の奥底までを見透かすような、魔神の眼差しはちょっと恐いが、また会ってみたい気もする。
夢の絵解き
昔エジプトの王様が、奇妙な夢を見たそうです。ナイル川のほとりに立って川岸を見ていると、川の中からよく肥えた雌牛が七頭現れ、気持ち良さそうに草を食べ始めました。しばらくすると今度は、川の中からやせ細った雌牛が七頭現れ、それが、肥えた雌牛七頭を全部食べてしまうと言う夢でした。不思議に思った王様は、誰かこの夢の絵解きをする者は居らぬかと、おふれを出しました。一人の若者が王様の前に出て、夢の絵解きをいたしました。
「よく肥えた雌牛というのは豊作を意味します。やせ細った雌牛というのは凶作です。七頭というのは七年間。つまり王様がごらんになった夢というのは、これから七年間は豊作が続きますが、その後七年間凶作が続き、蓄えを全部食い潰してしまうと言う意味になります。ですから今から直ぐ、凶作に備えて穀物の貯蓄を始めて下さい。」
若者がこう夢の絵解きをいたしますと、王様はいたく感心され「では、その方に政務官(今の総理大臣)を任せる故、この国の倉を穀物で一杯にするように」と命じ(頼み)なさいました。(詳しい内容は、創世記の四十一章)
若者は立派に働き、凶作が何年と続いたときでもエジプトだけは飢饉を免れ、近隣諸国の人はこぞってエジプトに難を逃れ、その中には多くのユダヤ人達(この若者もユダヤ人)もいたのです。働き者で技術を持ったユダヤの人達のおかげで、さらにエジプトは栄えてゆきました。やがてユダヤの人達はモーゼに率いられ、豊かなエジプトを捨て、約束の地カナンへと向かいますが、それは、この何代も何代も後のことになります。
この話に刺激を受け、私は自分で、見た夢の絵解きをやりました。私の見た夢は、次のようなものでした。…と、ここまで書いて、家内から言われました。
「どんな大作家だって、聖書と張り合おうなんてしないよ。あなたが見た夢なんて、大したことはないんだから」それもそうだと思い、今回私が見た夢の披露はやめにしましょう。国や民族を動かすほどの、スケールの大きい夢を見たときには報告します。それぐらいの夢を、見てみたいなあ。
夢を完成させるために
これから夢のお話を致しますが、まあ、付き合って下さい。とても気持ちの良い目覚めのする夢だったのです。ただ、自分なりにこの夢の謎を解いているうちに、一つ欠けているものがあることに気がつきました。最後にそれを述べて、この夢を完成させたいのです。私が見た夢は、次のようなものでした。
裸になって防波堤で遊んでいる幼稚園児の息子を、私は上から眺めていました。息子は(夢の中では五歳ですが、当時は小学校四年生)、テトラポットがいっぱいある所を行ったり来たりしています。「危ないなあ、足を踏み外さないかなあ、海に落ちそうだなあ」心配していますと、案の定ドボンと、海に落っこちてしまいました。見てるとどうも、自分からわざと落ちたように見えました。
子どもは沖へ向かって一かき二かき泳ぐと、足の立たなくなった深みで急に溺れ、もがき出しました。「父ちゃん、助けて」とも言いました。私は物陰から子どもの様子を見ていて、子どもに私の姿は見えていないはずなのに、とも思いましたが、とにかく心配で、堤防の高いところから、へっぴり腰で下まで降りて、海に飛び込み、息子を背中におんぶしますとこの子は、背中の上から、向こう岸に渡りたいと指をさしました。子どもを背中に乗せて、ようやくの思いで、向こうの岸まで辿り着きました。岸に辿り着くと子どもは、「ああ、やっぱり一人では無理だった」と言って私の背中からポンと飛び降り、ちらっと私に一瞥をくれはしましたが、私に言葉を投げかけるでもなく、その岸の向こうにある、何らかの目的地に向かって、一目散に走り出しました。私は陸地に這い上がる気力もなく、子どもの後ろ姿を見送りながら「頑張れよ…、」とだけ言い、ブクブクと沈んでしまうという夢でした。
夢から覚めて、「薄情な子どもだなあ」とも思いましたが、とても目覚めは良かったのです。目覚めの良い夢というのは、とても良い暗示があるのだそうです。さて、この夢の謎を解く鍵は、「泳ぐ」もしくは「溺れる」という行為が何を意味しているかにあるのですが、夢の謎を解くにも、それなりの基礎的な知識が必要です。「ふ*し*ぎ!夢うらない」(周 明蘭/著 学研)という、小三の私の娘(夢に登場した息子の妹)が持っている本を頼りに、この夢の謎を解いていくことにします。「泳ぐ」もしくは「溺れる」という行為の意味ですが、「泳ぐ夢は、何か目標に向けて努力しているときによく見る夢」なのだそうです。スイスイ泳いでいたなら、その目標は割と簡単に達成できるそうですが、溺れているような場合には、相当な努力が必要とのことでした。“目標に向けて努力している”という状況はあるものの、今回私が見た夢は、「泳ぐ」「溺れる」のどちらと捉えたらいいのだろうと考えているうちに、「ああ、これは今の私のことだ」と、直ぐにピンときました。
当時私は会社勤めを辞めて、土地家屋調査士の事務所を開業しようとしていたのです。子どもが海に落ちるというのは、私が会社勤めを辞めようとしている事への不安を暗示していたのでしょう。泳いで向こう岸へ渡るというのは、目標が達成できるかどうかの暗示ですが、それはどうやら、一人では出来そうにはないと言うことでしょうか?誰かの背中に乗っかって…、と、そんな風に考えていましたら、海に落ちた幼い子どもというのは、まさしく、この私自身に他ならないのです。では、子どもである私を背中に乗せて、目的地の向こう岸まで運んでくれた、夢の中で、私の立場から事態を見つめていたのは誰か?海に落ちそうな子どもが心配で、その子どものために、海に飛び込んでくれたのは誰か?…、ということになります。あれこれ思案していましたら、「私を守ってくれている、ある大きなもの」と考えるようになりました。神様でも仏様でも、それはいいと思いますが、私はもっと身近に、亡くなった私の父と考えました。そう思ったとき、「しまった!」と、悔悟の気持ちが私を襲いました。
亡くなった父の背中をポンと飛び降りたとき、子どもである私は何と言ったか?「ああ、やっぱり一人では無理だった」ではなくて、「父ちゃん、ありがとう」と言わなければならなかったのです。夢の中とはいえ、いったん口にしたものは取り返しがききませんが、改めてここで「父ちゃん、ありがとう」と口にすることで、私のこの夢は完成するのです。「私は守られている…、」とても目覚めの良かったこの夢を思い返しながら、私は何度も、「父ちゃん、ありがとう」と、口の中で唱えました。
ひまぐらし
「熊本では、”ひまぐらし“といった言葉を使うことがありますが、あなたの所にはこんな言葉ありますか?」先日、他県の人に聞いてみた。
「面白い言い方ですね」と、意味は何となく伝わったみたいだったので、「自分の仕事は横においといて、あれこれ世話を焼いているような人のことです」と説明したら、「そんな意味があるんですか」と驚いておられた。隣の県の人だから、分かると思っていたが、全くの方言だった。
言葉を探すと、ボランティア活動が一番近いが、家族の世話を指して言う場合もあるので、もう少し広い範囲で使われている。熊本に住んでいると、所帯を持ち、子供が出来、三十を過ぎて、段々と、忙しい仕事とひまぐらしとが重なり出す。大体において見て見ぬ振りが出来ぬ質(たち)であるから、自然と行動し、世話を焼き、気付いた時は、ひまぐらしにどっぷり浸かり切っている。
ひまぐらしをする時は、一番肝心な自分の仕事を脇においてせざるを得ず、そんな状況を、言葉の響きにどことなくユーモアを込めて、ひまぐらしと他人に説明する。言葉本来の意味は、”無駄な仕事、徒労“(もっこす語典「山口白陽」)である。言われる方はそれほど重荷にならず聞き
流し、言う方は照れを隠す表現となっている。ひまぐらしを使って、路上で二人が会話するところを再現すると、次のようになる。
「どこに行くとな?」「今から、ひまぐらしですたい」この後熊本の人間であれば、大半の人は「それはご苦労さんです」と答える。内容をあれこれ聞く人はいない。この地方では、”世話ごとなどで時間がつぶれること“(長洲の方言「鳴洲句会」)とも、共通の理解は得られているのではないだろうか。
年齢が加わるに従い、職場でも地域でも、色々な役を引き受けることが多くなる。それこそ ”無駄な仕事、徒労“なのだが、自分自身にとっては面倒なことであっても、周囲の人が助かることなので、”世話ごとなどで時間がつぶれ“はするが、ひまぐらしを、もっと表に出した生き方を評価したいと思う。みんなでひまぐらしに精を出せば、熊本独特のボランティア活動が出来るだろう。言葉があるというのは、素晴らしいことである。大事にしたいものだ。
リレー随想
Yさんから電話で、新聞に文章を書いてみないかと言う。一瞬何のことだろうと考えていたら、今度西日本新聞で、エッセーを書くことになり、Yさんに人選の相談があって、今、知り合いを当たっているとのことだった。
熊本に「詩と眞實」と言う同人雑誌があって、私も以前それに参加して、少しばかり、作品めいたものを書いていたことがあった。Yさんは今でも同人だが、私はとうに辞めて、文章らしきものは永く書いていない。書けるかなあと思ったが、「これはチャンスかも…、」という気がした。考えていると、「どうですか?…」と、Yさんがたたみかけてきたので、私はすかさず、「書きます」と返事をしていた。
字数は一千字(原稿用紙二枚半)で、内容は、熊本の風土について書いてくれとのこと。執筆陣は、二十代から順に、三十代、四十代、六十代、七十代と各年代を揃え、それぞれの立場から熊本の風土について書いていけば、そこに自ずと、現在の熊本が浮かび上がるだろうというのが、編集者の目論見であるらしかった。意図は分かるが、そう簡単にはいかないのではないかと思った。
“熊本”と言うことであれば、私にも一つや二つの思い入れはあるので、それを書かせてもらい、原稿をYさんに送った。しばらくして、顔写真を取るので、新聞社まで来てくれと言われ、新聞社というのは、どんなところだろうと、わくわくしながら出かけていった。
テレビドラマなどで新聞社と言ったら、机の上は雑然としているものだが、実際の新聞社は(西日本新聞社だけかも知れないが)、部屋もこざっぱりとしていて、雑然としたイメージは全くなかった。
担当のデスクと名刺を交換し、「一つや二つならいいですけど、そんなに一杯、熊本という題材だけでは続けられないですよ」と、長く書き続けることの不安を言った。「熊本と言うことにこだわらず、題材は自由でいいです」と、デスクから言質をもらったのでいくらかほっとし、「期間はどれくらいですか?」と聞くと、「終わりはありません」と言うデスクの言葉には、一瞬耳を疑った。せめて一年間は続けるつもりでいたが、それ以上続けられる自信はなかった。
“では私は、いつやめたらいいんですか?”と、言葉がのど元まで出かかったが、それをぐっと飲み込んで、「とにかく頑張ります」とだけ返事をして、新聞社をあとにした。
「ひまぐらし」について
新聞の新しい企画として始まったリレー随想、当初の予定では、五、六名の執筆陣がそれぞれに、熊本の風土について述べていくというのが趣旨であった。この趣旨は、早々に立ち消えとなっていくのだが、熊本への思い入れは、私にも一つや二つはあるので、それを書こうとして思い浮かんだのが「ひまぐらし」と言う言葉だった。
以前勤めていた所で、ある社長さんのインタビュー記事を読んだことがある。多分どこかの営業の人が、あの人が載っているよ、と言う感じで持ってきたのではないかと思うが、インタビューの終わりで、この社長さんが、「仕事は全部息子に任せて、私は今は、“ひまぐらし”ば、しよります。」と答えておられた。そのときのインタビュアーの人が、「この地方でひまぐらしと言うのは、人のお世話をしているという意味です」と、記事の中にわざわざ注釈しているのを読んで、この記者にとって、ひまぐらしと言う言葉は、衝撃だったんだなあと、なんとなくピーンときて、そんな思いを、熊本の風土で何かを書かなければならなくなったときに思い出して、「ひまぐらしで文章をまとめてみよう」と取り掛かったのだが、文章をまとめている脇で家内が、「ひまぐらしって、本当にそんな意味なの?」と、しつこく言うので、「だって、そういったときに使うだろう」と、私が再三言っても納得しない。「本当にそうかどうか、ちゃんと調べて書かないと、新聞は公
のものなんだから」と、何度も言うので、わざわざ図書館まで調べに、というか、確認に行った。
もっこす事典だとか何だとか、そうしたものは発行部数も少なくて、貴重品扱いで、貸し出しはしてくれない。コピーを取らせてもらって、家内に見せて納得してもらった。「もう少し為になることを書け」とも言うが、素人の文章書きにそこまで言うのは、ないものねだりというものだ。そちらの意見は、無視させていただいた。
このひまぐらしだが、書いてみて、やはり他県の人は皆さん、ちょっと驚いてこの言葉を受け止められたようだ。人のお世話をすると言う意味合いがあるので、「言葉を探すと、ボランティア活動だ」と、ひまぐらしを紹介したものだから、他県の人は納得しても、熊本の人はそうだと言ってくれるかなあと、ちょっと心配だったが、地元の人も一応は、「ふーん」と受け止めてくれて、いくらかほっとした。ある人は、「徒労と言った意味のあるひまぐらしを、ボランティア活動と受け止める、マイナスの言葉をプラスに転換する、そのダイナミックなところに感動しました」と言ってくださる方もいらして、そこまで考えて書いたわけではないけれど、大方のところで共感してもらえて、とても嬉しかったことを覚えている。
媚薬
母が六十を越えた頃から、高血圧だの体に色々と兆候が出だした。夫婦共稼ぎで、子供も産まれたばかりだったので、母にはまだ頑張って貰わなければならなかった。当時勤めていた会社の上司から、ドクダミが良いと教えられ、早速近場から採ってきて陰干しにし、今からはドクダミをお茶代わりにしようと、毎朝神棚、仏壇に上げるお茶もこれにした。ドクダミのお茶は、それ程飲みづらくはない。ヨモギも一緒に飲むとさらに効果があると教えられ、同じように陰干しにして飲んでみたが、こちらはちょっと抵抗を覚えるような味で、しばらく飲んでみて、やっぱり合わないのでヨモギはやめにした。
薬草とか漢方薬に詳しい友人がいて「ドクダミは十薬とも言って、十の薬効がある。漢方の世界では、上中下の中でも上薬とされている」と教えてくれた。雑草の代表格みたいにして生えている草が、実は最上級の薬草だったというのがなんとも愉快で、もう少し詳しく知りたいと思って、「何かいい本ない?」と教えて貰ったのが「漢方の臨床応用」(中山医学院編、神戸中医学研究会訳.編)だった。素人が理解できるギリギリぐらいの本で、いろんな薬草や薬石がずらりと載っている。六千八百円と少し高かったが、近くの本屋(当時「竹とんぼ」が近かった)に頼んで取り寄せて貰った。私の漢方熱は一時的なもので、母の症状が落ち着くとドクダミはどうでもよくなったが、漢方の本を少しばかり読んだおかげで、食べ物を栄養的な面ばかりからではなく、薬効の面からも考えるようになった。ナス科の食べ物(トマト、ピーマン)はおいしいけれど、体を冷やすので冬場はあまり食べない方がいいな、と言った具合に。それともう一つ。
かんむし、夜泣きに良く効く、〇〇〇〇丸と言う薬がある。二人いる子供のうち、上はそうでもなかったが、下の子は夜泣きがきつくて、何度かこの薬のお世話になった。乳児期が終わって夜泣きの心配もなくなった頃、この薬の成分を見て驚いた。牛黄(牛の胆石)、麝香(鹿の雄の分泌物)、人参(朝鮮人参)、沈香(白木香と言うジンチョウゲ科の樹脂)と、上薬が四つ。これらの薬の正体、お分かりだろうか?いずれも媚薬と言われるくらいの、強力な精力剤である。夜泣きを媚薬で治す。何となく夜泣きの正体が分かったような気がしたものだった。精力剤と分かれば使わない手はない。疲れたときにはいいかなと、余り物を一粒二粒なめてみたが、子供の夜泣きがピタリと治まる程には、効き目の実感は得られなかった。中年男が夜泣き薬に頼っていては様はない。「このお薬は、お父さんが飲むようなものではない」と、一生懸命夜泣きしている世の赤ん坊から、叱責を受けそうだ。
文明以前
「時間は過ぎ去る、従って、空間は広がる」と、私は勝手に思い込んでいる。ここに、時間は過ぎ去らない、空間は広がらない、と確信している、強烈な個性を持った存在が目の前にいたとしたら、どうだろう。しかもそれは、割と身近にいたのだ。言葉を覚え始めたばかりの、三歳の我が子がそれである。
時間は過ぎ去るもの、空間は広がるものとして捉える所から文明は始まる。時間は過ぎ去らない、空間は広がらないと思っている我が子の認識は、文明以前のもの。谷川俊太郎の、「生長」という詩を紹介しよう。
三歳 / 私に過去はなかった / 五歳 / 私の過去は昨日まで / 七歳 / 私の過去はちょんまげまで / 十一歳 / 私の過去は恐竜まで / 十四歳 / 私の過去は教科書どおり / 十六歳 / 私は過去の無限をこわごわみつめ / 十八歳 / 私は時の何かを知らない( 詩集「二十億光年の孤独」より)
時間という根本を、このようにやさしい言葉で捉えたいのだけれど、まずは、詩の言葉に圧倒されてしまう。それでも、文明以前という所に思いをやると、何となく、やさしくなれるような気がする。
時間を操ることにより人は計算を覚え、文明が始まった。計算は便利であるが非情な側面を持つ。ある未開部族の人たちに、「計算は邪悪なもの」という考え方があるのだそうだが、あながち、侮ることのできない見解だろう。
ところで読者諸氏は、「時間」というものというか認識を、発見(元々あったもの)とお考えか?発明(人間が作ったもの)とお考えか? 発明(人間が作ったもの)として捉えると、この世のいろんなことが見えてくると思うが、どうだろう?
資格勉強
「資格を取って世に出よう」受験指導校のキャッチフレーズをそのまま信じて、資格を取った。三十半ばから合格するまでの数年間、極端な受験生活を続けた。四十過ぎての合格だったが、その間に子供は小学校に入学し、いつの間にか四年生と五年生になっていた。「家族の協力がなかったら、合格できなかったですね」と、一緒に合格した仲間が言った。
勉強を始めた当初は独学だったが、二年目からは、どこかの教育機関のお世話になりたいと、東京の通信教育を家内と相談した。「どうせするんだったら、講師の先生の話を聞きながらした方が、良いんじゃない。熊本にはないとね?」と言うので探してみたら、いくつかあった。“専門的な知識を勉強するところが、熊本にもあるんだ”と、Uターン族としては、何となく嬉しかった。講義は土曜の夜にあっていた。費用が私の一ヶ月の給料とあまり変わらず、子供もまだ幼くて言いづらかったが、少しの間、独学で頑張っていたので、いくらか応援してくれるだろうと、「晩酌ば減らすけん」と頼んでみた。「晩酌にそがんお金はかからんよ」と、決して楽ではない金額の出費を認めてくれた時は、直ぐにでも合格するかと思ったものだった。
受講者の一人は、熊本と同時に福岡でも講義を受けていた。「福岡は、余程良かとじゃろ」金も時間もない私はやっかみ半分で聞いてみた。「金の続かんですよ。来年の講義料は、もう無かです」と言っていたが、この彼も何年か後に合格した。法務局の掲示板に、自分の受験番号を確かめたときは、にわかには信じられず、何度も確かめてから家内に電話した。
「通ったよ」今まで何度も『だめだった』ので、『へぇー?』とでも言うかと思っていたが、私以上に喜んでくれた。その晩家内と子供達と、外で食事をした。「応援してくれた人達にもお礼言わなきゃね」と家内が、従姉がやっている居酒屋で感謝会を計画した。顔ぶれは、今回の資格試験に絡んで心配かけた人達で、子供二人が前に立って、司会進行をしてくれた。
「皆様のおかげで、父ちゃんは立派な土地家屋調査士になることが出来ました。父ちゃんから皆様へ、お礼の挨拶があります」子供は思いの外落ち着いて司会を務めていたが、主役の挨拶はしどろもどろで、どうしようもなかった。
本番に弱い人の特徴
楽しい土地家屋調査士の受験生活ではあったが、家族に迷惑をかけているのは明らかなので、今の状況に早くけりをつけねばと、段々と気持ちの方が、焦り始めていた。
勉強を始めて二年を過ぎると手応えを感じるようになり、三年目の試験では合格するつもりで臨んだが、落ちてしまった。落ちた原因は、実力の不足ばかりではなかった。土地の面積を出すのに、電卓を使っていいようになっていたのだが、どこか変の所のスィッチを押してしまったのだろう、電卓が動かなくなって、試験の最中に、頭が真っ白になってしまった。全く動かない電卓とにらめっこをして、いたずらに時間を潰して、ハッと正気に戻り、急いで手計算に切り替えたが、もう遅い。気持ちが動揺している分、その後の作業でも後れをとってしまった。完敗である。これで受かっている筈もなくもなく、案の定、この年の試験は落ちていた。
落ち着いて対応すれば、十分に可能性はあったものを、せっかくのチャンスを申し訳ないことをしてしまった。「俺って、本番に弱いのかなあー…、」段々と気弱になった頃、車からのラジオでパーソナリティーが、「本番に弱い人の特徴」と銘打って、面白いことを言っていたので、聞き耳を立てた。
いろいろと項目を並べていたが、その中で私が思い当たったのは、「本番に弱い人の特徴の一つは、友達が少ない」ということだった。人と会ってすぐに挨拶をする、声を掛ける、こうしたことが、自分の精神力を高めることになるのだろうと、これはすぐに納得出来た。納得したら、次は実行だが、どうしようと思って、土地家屋調査士という仕事は(当時私は見習いだった。)、法務局への出入が多い。そこで誰彼見つけては、こちらから挨拶をする。それも多少強引に…、相手が後ろを向いていたら肩をたたいて、こちらに向けて「こんにちは」と満面の笑みを浮かべる。その人はまずびっくりして、次に私以上の笑みを返してくれる。この後、流れるような会話ができれば完璧なのだろうが、私の器量では、挨拶するまでが精一杯である。ここはちょっと辛いところだが、そこは割り切って、次から次へと声を掛けて行った。結果どうなったか?毎日がすっかり楽しくなった。気持ちも、だいぶ落ち着いた感じがしたのだが、このせいかどうかは分らない。
後は情緒を安定させるのにカルシウムの摂取を心がけたり、咀嚼の回数を増やすためにガムをかんだりと、試験とは全く関係のないことに気を遣ったが、翌年合格したので、なにがしかの効果はあったのではないかと思っている。受験生の方は是非参考に(ならないかな?)。
毛布を洗う
一槽式の全自動洗濯機を初めて買ったときは、ちょっとした驚異だった。それまで使っていたのは洗濯機と脱水機が別々の二槽式であったが、確かに一槽式になってからは、一度に洗える洗濯物の量が、断然違う。便利になったものだと感心している内に、それも古くなって、さらに新しいのを購入することになった。家の広さもあるので、そんなに大きなものも買えないが、それでも前のと比べれば一回り大きくなって、電器屋さんの話によると、毛布も洗うことができると言う。
「確かに大きな洗濯機だけど、この水槽の中に毛布を入れて、どうやってもみ洗いするの?」
以前自分で毛布を洗おうとして、風呂場で苦労したことを思い出して聞いた。 「ご主人、それは発想を変えてください。」と電器屋さんは、私に分かり易く、洗濯機の洗浄の仕組みを教えてくれた。
「毛布をもみ洗いするのではなくて、毛布の中を、水に溶けた洗剤が通り抜けることによって毛布を洗うんです。毛布は動かないで、毛布の回りを、水に溶けた洗剤が動いていると思ってください。」人の良い電器屋さんは、物わかりの悪い私に、身振り手振りで説明してくれた。洗濯機の中で、そうした働きが行われているのを想像して、実感しないといけないのである。毛布をごしごし洗うのであれば実感するのはたやすいけれど、毛布の中を、水が、洗剤がと、ミクロの世界を想像して、毛布がきれいになっていくのを実感するのは、そう簡単ではない。
とは言っても、そこは私もわさ者(新しいものや珍しいものが大好きな、熊本県民の気質)の血筋を引いている。毛布を洗いたくて仕方がない。幸い家で仕事をしているので、そんなに忙しくないときに、毛布を洗った。朝の七時くらいから洗濯機を回して、午前中一杯で洗えるところまで洗って、毛布を何枚も干して、今日これだけの仕事ができたことを、喜ぶのである。
ムンクの自画像
ムンク(一八六三~一九四四)は何と言っても、「叫び」という絵が有名だが、自画像も多く残しているようだ。画集を開いていたら最後の方で「時計とベッドの間の自画像」と言う絵が目に飛び込んできた。いろんな作家の自画像があるのだろうけれども、こんな自画像は初めて目にする。
自分の寝室、ベッドの側で正装とまでは行かないけれど、服の襟をそろえ、正面を見据えてキチンと立ち、足は、老人特有のO脚で…、
晩年の作品だろうが、この絵を見たとき、「ここまで、よくがんばりなさったですねえ…」と私は、思わずムンクに声をかけていた。絵の善し悪しは私には分からないけれど、何かを感じたムンクが、自分の人生へ挨拶するようなつもりで、そこに立っていたのだろう。人生を一生懸命がんばって、慎ましやかに、それでも誇りを持って立っている老人に、私は目頭が熱くなった。この絵の老人のように、自分の人生の最後を感じたときに、「ありがとう、お世話になりました」と言って、この世から立ち去りたいものだと思う。
立派な死に方をするには、立派な生き方をしなければかなうことではない。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」とは葉隠れの中の言葉だけれど、立派に生きたムンクは、立派に死んで行ったのだろうと思った。
歌集の出版
週一回、友人で画家の所に、二人の子供たちが絵を習いに通っている。そこの奥さんが、歌集を出した。タイトルは、『虹の食べ方』(葉文館出版)著者は上野春子さん。先日、歌集の出版祝賀会があり、私たち夫婦と義妹共々招待していただいた。参加者のほとんどは歌誌『牙』のメンバーで、他の短歌グループの人も何人かおられた。
冒頭、歌誌『牙』主宰の石田比呂志さんが、この出版祝賀会の為に、上から下まで服を新調して来たと、ユーモアたっぷりに祝辞を述べられた。平成九年に角川短歌賞次席を始めとした、数々の受賞歴も披露された。春子さんが受賞するまでは知らなかったが、角川短歌賞というのは、何年か前に「サラダ記念日」と言う歌集がブームになったが、それである。石田さんが、服を新調して来るだけのことはあるのかも知れない。
次から次へといろんな人が壇上に上がった。短歌の祝賀会では当然なのだろうが、前に立って挨拶する人のスピーチが独特なのは、付箋を一杯につけた歌集を片手に、それぞれの人が歌評を行ったことである。料理を前にして、「何ページのこの歌」と壇上の人が言うと、一斉にパラパラと本をめくる音がして、周囲を見渡すと、みんな歌集を開いている。歌集持参で祝賀会に参加するなど、私は思いもしない。さすが心がけが違うと感心しながら、この会に臨む出だしの所で、すでに私とは意識が違う。一つの目的で集まっているグループは凄いなと、感動すら覚えた。歌を紹介するのは私の任ではないが、好きなのを一首。『悲しみは醤油のごとく沁み入りて夕べ世界は我より離(さか)る』悲しみ、醤油、夕べ、そして夜道と、情景がつながって、自分が子供だった頃の、漠然とした悲しみに思いをやった。子供の悲しみから離れて大人になり、今まで生きてきたことを考えた。歌の持つリズムなのだろう、懐かしいものに出会えた気がした。
十三年前に春子さんが短歌を始めたとき「何で?」と、家内は昔からの友人なので特に驚いていた。努力を重ねて、一人の才能が開花したのは、悦ばしい限りである。どういう形で彼女を応援することが出来るだろうと、この原稿を書いているが、何はともあれ、祝杯を挙げよう。
牛下がり
体を動かすのは嫌いではないが、何もせずに、ボーっとしているのが一番いい。何もせずにボーっとしていたのは昔からで、小学生の時など、休憩時間になるとみんなは校庭で遊んでいたが、私一人教室に残ってぼんやりしていたからか、ある時担任の先生から「休み時間は、ただ鉄棒にぶら下がっているだけでもいいから」と言われ、何をするということもなかったので、授業の合間の十分程度、ただひたすら、鉄棒にぶら下がっていた。
中学校ともなるとそうではないが、小学校の場合、高鉄棒のある砂場は、人が多く集まって、にぎやかな場所であった。運動神経のいい子は、高い鉄棒の上でいろいろの技をして、みんなの注目を集めたり、たまには拍手をもらったりしていたが、私はその隣で、ただひたすらにぶら下がり続けていた。
ぶら下がり続けているうちに、一つの技を身につけた。鉄棒に長時間ぶら下がっていると、どうしても鉄棒を握っている手が、体の重みでずれて、落ちそうになる。そこで手を持ち変えるわけだが、小学生であれば、まだ、片手ずつを持ち変えるくらいのことしかできない。ちょっと体を揺すって、両方の手をいっぺんに持ち変えていたのは、私が見る限りでは、他にいなかった。こんな小さな事に目を向けてくれる子もいないが、内心、ちょっとだけ得意になりながら、ぶら下がり続けていた。後からは、十分の休憩時間を、ほとんど休みなしにぶら下がり続けるようになったので、今から思うと、相当な体力を身につけていたわけである。
中学生になったある日、誰もいない中学校の校庭で、高鉄棒のそばを通りかかり、何となく小学生の頃を思い出し、一、二分ほどぶら下がって、最後は逆上がりぐらいしただろうか、そして、やめにしたことがある。次の日美術の先生と廊下で会って、「昨日鉄棒で、牛下がりばしとったろう」と笑いながら言われ、牛がどのようにして、鉄棒にぶら下がるんだろうと、「何ですかそれは?」と尋ねた。「牛は解体されると、肉の塊は、だらーんと、針金にぶらさがっとるでしょうが」先生は、笑いながらおっしゃった。情景は良く分かったが、そんな言葉があるのかなあと、「ハハハ」と笑って、長時間、ただひたすらにぶら下がり続けるというのは、これが最後となった。私は、いくらか快活な人間(を目指すよう)になっていた。
三文芝居
初孫だったので、祖母にはずい分と可愛がってもらった。一人住まいの祖母の家に、小学校にあがる前ではあったが、何度も泊まりこんだ記憶がある。
昭和三十年代半ば、そのころは、どんな小さな町にも映画館のひとつやふたつはあって、結構にぎわっていた。映画以外でも、「ドサ回り」といわれる人達の芝居も、今よりは簡単に見られ、祖母に連れて行かれて見た芝居が、今でも奇妙な記憶として残っている。
夜暗くなってから行ったように思うが、町の映画館で、今でいうなら、さしずめ大衆演劇というやつで、股旅物だった。五、六才の子供に、面白うかろうはずもないが、今となっては、見ようとしてもなかなか見られない、貴重な興行になってしまった。
三、四人の出演だったように思う。話の内容はそんなに覚えていない。ただ、一つの場面だけは強烈な印象で、今もって何だったんだろうと、首をかしげている。
旅のやくざが、町のチンピラに絡まれている若い女性を助ける場面で、町のチンピラを脅すのに、胸元からピストルを取り出すのだが、そのピストルが、夜店で売っているゴム銃なのだ。「そんなの出されても、ぜんぜん恐くない。」と私は思った。だがそのあと町のチンピラは、腰を抜かさんばかりに驚いて、逃げてしまうのである。それを見た瞬間私は、「インチキだ!」と、強烈な印象をもってしまったのである。回りの大人たちは、こんなみえみえのインチキを、なぜ喜ぶのだろうと不思議でならず、そのときの芝居と、大人たちの歓声が、いまだに私の頭の中で、トラウマのようにこびりついている。
この頃は、バーチャルリアリティ(仮想現実)と称する、現実味を帯びたものの制作が、簡単に出来るようになった。気の利いた品物が、身の回りにたくさんあるが、おもちゃのゴム銃で腰を抜かすような、そんな三文芝居を、場末の薄くらいところで、もう一度見てみたい。
「俺」「僕」「自分」「私」
今の子供を見ているとそうでもないが、私たちが小さい頃、自分のことを、「僕」と呼んでいる男の子は、私の身の回りに限って言えば、皆無だった。大体「俺(おら)ァ」と自分のことを呼んでいた。それで不都合を感じることもなかったので、小学校で何かにつけ、「僕」と言う呼び方を強要されるのが嫌だった。これで一番困ったのが作文である。作文では自分のことを、「僕」と呼ばないことには先へ進めない。作文が苦手というよりも、嫌だった。
中学を卒業してから、陸上自衛隊の学校に入隊した。別に強要されたわけではなくて、ここでは「自分」と呼んでいた。これに類する固有名詞を持たなかったこともあるが、この呼び方を、気に入って使っていた。二十三歳で退職した後も、しばらくは「自分」と呼んでいた。自衛隊にいる頃はそれでも良かったが、辞めて行った先々で「自分」と言う呼び方をすると、相手の人は、大体一様にして驚かれる。何度か話しているうちに慣れて頂いたが、不都合だと思うようになった。
年配の人を前に「俺」と言うわけにもいかず、新たな固有名詞を探さねばならなくなって、二十代の後半からは、「私」で通すようにしている。子供の時は女の子しか使わないが、ある程
度大人になると「私」という人称を、男でも使えると知ったからである。自分をどう呼ぶか、私より少し年上の友人は、
「七十,八十の人を前にしたときは、「私」では失礼かよ。やはり「僕」と言うべきよ」と、話してくれた。『そうかなあ』と思う反面、この頃は自分自身の老後のことなども考えるようになり、将来の姿を思うと、この友人の言ったことにも共感してしまう。
「俺」「僕」「自分」「私」、今まで使った人称を改めて考え直すと、どうでもいいことではあったが、それなりに、自己を確立しようと必死だった。当時と比べ、いくらか物分かりが良くなった今の立場から、あれこれ口を挟むべきことではないのかも知れない。ただ、これから「僕」という言葉を使って作文を書くのも、悪くはないと思っている。
時分の花
中学を卒業して、少年自衛隊というところに入隊した。いわゆる高校時代を、特殊な環境で過ごした訳だが、こうした年代を大勢面倒見なければならなかった区隊長は、さぞかし大変だったろう。私には今、同様な年頃の子どもがいる。
二年生の時だから十六、七歳。この年私たちは、自衛隊の中央式典に参加するため、毎日毎日、パレードの予行練習を繰り返していた。手を大きく振って、列をそろえて、歩調を取る。この訓練が毎日二時間ほど続く。
式典当日には、自衛隊の大ベテランである区隊長はいず、私たちだけで行進しなければならない。それだけに指導は厳しかったが、(鬼の)区隊長もたまには、優しいことを言う。「式典当日は、おまえ達が一番注目されるのだから、がんばれ」と。訓練して、多少は歩調も取れるようになったとはいえ、入隊してようやく一年を過ぎたばかりの私たちである。パレードには、精鋭で知られている習志野の第一空挺団や、東京練馬の第一普通科連隊といった、私たち自衛隊の中では、その名の知れ渡った部隊も参加する。十年選手を一年生が追い越すようなことを、おいそれと信じる訳にはいかぬ。
そうした気持ちで臨んだ中央記念式典だが、確かに区隊長が言ったように、どうやら私たちのパレードが“一番注目され”たみたいで、拍手も歓声も一番大きかったように感じた。パレードを精鋭な部隊と張り合って、一番の注目を肌で感じてしまうと、「なぜだろう?」と思う。我が身の誉れではあるが、不条理でもある。こうした疑問への答えが、「時分の花」という言葉だったのである。分かり易く言うと、「鬼も十八,番茶も出花」ということだったのだ。つまり観衆は、私たちの“若さ”に拍手したのであって、“訓練”に歓声を上げたのではなかった。若いので注目をされるが、その注目は、訓練に裏打ちされたものではない。綺麗だが、時が過ぎれば消えていく「時分の花」だったのである。
若いというだけで、時分の花という素晴らしいものを天は与えてくれる。区隊長はこの花をまぶしく感じて、私たちを励ましてくれたのに違いなかった。日本の古典の中に、時分の花という言葉があるのを知ってあのころを思い出し、申し訳なかったなあ、そして有り難いことだったなあと思わずにはおられなくなったのである。自分が子を持つ親ともなれば、なおさらのこと。
「花伝書(風姿花伝)」という、世阿弥によって室町時代に書かれた能楽の本を、完全に理解し得たわけではないが、先人の知恵が芸術や技芸を通じ、教育や訓練についても多くの内容を伝えているのは、有り難いことである。貴重な体験であった。
メザシ
タイル職人の弟と同居していた。今と違ってコンビニとかなく、弁当も簡単には買えなかったので、現場によっては、どうしても弁当持参でないといけない所があった。そんな弟のために、母は弁当を作り始めたが、どうせ作るなら、私のも一緒に作ってくれと頼んで、しばらくは、お手製の弁当持参で会社に出勤していた。弟はおとなしいので何も言わなかったが、私はいろいろと感想を言った。おいしかったとは、あまり言わなかったようである。これは仕方のない面もあるのだが、母の作る弁当は、昔風の田舎料理で、三十前後の若い人間には、少し物足りなかったのである。
私が勤めていた会社は、従業員が十数名の小さな会社ではあったが、製造業であったので、工場とか、会社の敷地は広かった。昼休みは工場の二階で食事をするのだが、その日はたまたま健康器具販売の人が会社を訪れていた。
「お食事なさりながらで結構ですので、しばらくお話しさせてください」そう言いながら販売員の人は、従業員全員にリトマス試験紙を配り、この試験紙をちょっと舌の先につけてくれと言った。弱アルカリ性なら健康だが、酸性ならばこのリトマス試験紙は、赤く変色するという。結果が出るまで、きょう売りに来た健康器具の説明を始めたので、聞くとはなしにその話を聞いて
いた。
販売員の人の話によると、体液が弱アルカリ性であるためにはカルシウムが重要で、現代人の食生活ではどうしてもこのカルシウムが不足しがち、そこできょう持ってきたこの器械、ということであるらしい。そんなにカルシウムが重要なら、わざわざそんな器械を買わずとも、牛乳を毎日飲んだ方が手っ取り早いと思ったが、私は牛乳を飲むと、おなかが痛くなる。そうこうしているうちに試験紙の色が変化して、色に変化がなかったのは、私一人だけだった。
「素晴らしいですね。体液が弱アルカリ性ということは、生まれたての赤ちゃんと同じということですよ。」販売員の人はそう言ってくれたが、あとは私の方は見向きもせずに、赤く変色した他の従業員に売り込みを始めた。みんな真顔で自分の健康を心配し、特に変色の激しかったMさんは、購入を考えているようだった。“健康なのは嬉しいけれど、私も少しかまって欲しいな”そんなことを思いながら、一人さみしく自分の弁当に箸を付けた。私がおかずを一つつまむと「ご覧ください! 健康な人は、普段からああしたものを召し上がっていらっしゃいます!」販売員の人がすかさずそう言ったので、従業員のみんなは、一斉に私の手元を見、私は仕方なしに、箸にはさんだメザシを上に上げると、従業員のみんなはなんと、このメザシを羨望のまなざしで見てくれたのだ。この中で、一番見劣りがすると思っていた母の弁当が、実は一番の優れものだったのである。ちょっと驚いた。
まだまだ先
この頃、とみに信心深くなったということもないのですが、ここ一、二年、御本部への参拝を続けさせていただいております。子供の頃から縁のある宗教ですので、参拝をすることに抵抗はありませんでしたが、私の中に、立派な人間になろうとか、大きな人間になろうとかいった気持ちが、近頃になって大分薄らいで、自分がそうした人間でない事が、十分に分かって参りましたので、これからは、「今あるものの中で生きていこう。」と思うようになりました。そう考えたときに御本部参拝の話しがあって、これまでの人生へのお礼も、まだ済んでいないのかも知れないと思い、お参りさせていただこうかという気持ちになりました。
「あら、あんたは御本部への参拝は、初めてだったかい?」と、親先生は喜んで下さいましたが、母も熱心に信心しているので、母が一番喜んでくれていると、教会の若奥さんからも言っていただきました。自分の人生を半分あきらめたようなところで御本部への参拝も決めておりますので、喜んでばかりもおらられないのですが、身の回りに、私のすることで喜んでくれる人が、一人二人いてくださるのは、有り難いことであります。
それほど資金力のある宗教団体ではありませんので、参拝する信者さん同士でマイクロバスを借りて、玉名から高速を鴨方まで行きました。高速での山並みを見ながら「自分の人生も、ここまで駒を進めることができた」と、今までのことや、亡くなった父のことなども思い出し、熱いものがこみ上げて参りますが、「ここで泣いたらいかん。ご本部はまだまだ先」と自分に言い聞かせ、元来、人一倍泣き虫だった、子供の頃のことなどを思い出させていただきました。